神仏分離政策と国学者・神道の動向

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草莽(そうもう)の志士のなかには、脱藩(だっぱん)浪人や国学(こくがく)愛好者にまじって多くの神官(しんかん)がいた。全国の神社を統率(とうそつ)する吉田家と白川家は、諸国の神官を京都に招集し、公家や朝廷の警備にあたらせた。北信濃の神官も京都に召(め)されている。慶応四年(一八六八)三月に宮廷内侍所守衛の役をとかれ、一時帰国を命ぜられた北信の神官一二人のなかに、綿内(長野市)の片山中務がふくまれている。

 幕末期には松代藩の文武学校には学科としての国学は置かれていなかった。民間の私塾では、松代の菅春風の「須気廼舎」ただ一つである。和歌の塾は松代にも善光寺町にもあったが、国学思想とくに平田(ひらた)派国学の師匠(ししょう)も塾もなかった。松代藩士の漢学者長谷川昭道は独自の皇学を編み出したが、維新の革命家を輩出(はいしゅつ)した平田派国学ではなかった。南信や佐久の神官のなかには平田派の国学者が多かったが、北信の神官には平田派はなかった。

 明治維新政府は、「王政復古」を新政権の旗印とした。天皇親政の政治形態の復興(ふっこう)が企画され、律令制度の太政官制が復活した。政府のなかに、行政を担当する太政大臣以下の官僚とはべつに、太政官と並んで祭祀(さいし)担当の神祇(じんぎ)官が置かれ、祭政一致の政治制度が復活したのである。維新政府の官僚のなかには、玉松操などの国学者の強い勢力があり、この人たちが宮中勢力と結びついて、政策決定に関与(かんよ)した。

 新政府は慶応四年正月に神祇官を設置し、同年三月九日には、神社の社僧・別当の還俗(僧籍離脱)を命じ、ついで三月二十日には、神社が仏像を神体とすることおよび大菩薩・権現などの仏語で神名をとなえることを禁じた。この「神仏判然令」(通称、神仏分離令)で神仏の分離が全国的におこなわれ、これ以後、各地で「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」が起こった。これら神仏分離の指令は、新政府の政権樹立がようやく見通しがつきはじめ、政権の政治方針が「五ヶ条の誓文」として示された時期に布告されたものである。いわば新政権のもっとも早い時期に法令として出されたものである。

 松代町豊栄の皆神山の山頂の神社は、社伝では熊野権現の垂迹地(すいじゃくち)といわれ、社殿に大日如来・釈迦菩薩・釈迦如来を安置する修験(しゅげん)の道場となっていた。この熊野速玉雄(はやたまお)権現の別当和合院は、木曽谷・川中島四郡や安曇・諏訪・伊那・筑摩各郡の年行事となり、信濃国の本山派山伏の統括(とうかつ)をおこなっていた。年行事は本山派本寺(聖護院)の代理として山伏を支配する役職で、松代藩からあたえられた寺領二〇〇石を領した。


写真26 信濃国の山伏を統括した皆神神社
(松代町豊栄)

 和合院配下の松代藩内の山伏は、松城組人数三二人、更級郡五明組二四人、埴科郡矢代組一〇人、同柏組八人、同日名組五人、更級郡郡村組二人、水内郡善光寺三輪村一五人、高井郡町川田組一三人、更級郡代(だい)村組九人、同足の尻組八人、水内郡北山中新町組四人、更級郡中牧二〇人、水内越組二〇人、同山穂刈味藤組一一人、霧山二人、その他二七人、四郡総山伏合二一五人であったと、『松代町史』は伝えている。これから算定すると、現長野市域に限っても、山伏数は九七人の多きにおよんでいるが、このすべては神仏分離で還俗(げんぞく)させられた。

 現長野市近郊の戸隠神社は、江戸時代には戸隠権現(ごんげん)と呼ばれていたが、「神仏判然令」後は戸隠大神と改称した。修験道場であった戸隠には戸隠三千坊とも称された多数の山伏がいたが、江戸幕府の統制で山伏全員が天台宗に改宗させられ、僧職(修験僧)となっていた。「神仏判然令」で戸隠は古くからの仏教信仰を捨て、神社を選択した。

 戸隠山の末寺は六寺あったが、現長野市若槻吉の山千寺(さんせんじ)はその一つであった。この寺は今日も寺院として存続している。戸隠両界山山伏は三二寺で、このうち現長野市域にあった修験の寺は、七二会五十平(なにあいいかだいら)の光輪寺・清水寺、瀬脇の高畠寺・徳泉院、市場の妙福院などであり、この寺の山伏総数は二五人である。これらの修験は神仏分離で還俗させられ、寺は廃止された。


写真27 戸隠山末寺の若槻吉の山千寺 銅造観音菩薩立像は重要文化財指定

 戸隠山は明治三年(一八七〇)に全山から仏教色をなくし、別当(大坊)の勧修(かんじゅ)院は改名して久山となり、奥院・中院・宝光院の衆徒(院)は還俗して神官となり、奥院は奥社、中院は中社、宝光院は宝光社と称することになった。

 神仏分離は明治初年から開始されたが、神仏分離の根底にあったのは、神道国教化の政策であった。新政府内の国学者勢力による神道国教化の第一弾は、明治三年一月の「大教宣布」の詔勅発布であった。しかし、廃仏毀釈運動が一応は終了したという名目で、太政官と並びたっていた神祇官は廃止され、同四年には神祇官の職務を継続するために「神祇省」が新たに設置され、太政官の支配下に置かれた。祭政一致から政教一致に国策が変化し、文明開化のなかで復古主義的な勢力は、政治の世界から遠ざけられていった。神祇省は同五年には早くも廃止になり、大蔵省に一時は属していた社寺係とともに、同年三月設置の教部省に吸収統合された。教部省は天皇制の国民教化機関であり、神道はじめ諸宗教を全国的に組織づけ、国民教化の政策を推進した。この教部省の諸政策は宗教統制をふくんでいた。無住無檀の堂寺の廃止は、同五年十一月の太政官布達で進められ、村民が共同で所有していた寺、尼僧の居住していた庵や、地蔵堂・観音堂などが廃止された。