戸籍の編成

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明治四年(一八七一)四月、政府は戸籍法を公布した。その目的は、大政の本務である人民の保護のために全国の戸数・人員を明らかにするというものである。その方法は、これまでの族属別(身分的)方式を改め、臣民一般(華族・士族・卒・祠官・僧侶・平民)を住居にもとづいて編成する、区画を定めて区ごとに戸長・副戸長を置き区内の戸数・人員・生死・出入り等を掌握させる、とした。

 松代県では、明治四年七月末日、松代城下とその近在の区画を仮割りし、家ごとに新番号札を打つので、戸札として縦八寸・横二寸の松の五分板をめいめい用意すること、書き方や打ち方は追って指示することを通達した。仮の区画は、松代城下とその近在を一の大区とし、そのなかを八つに分けた。一小区から四小区までが城下町、五小区が清野、六小区が西条恵明寺(えみょうじ)から笠村・表村東まで、七小区が白石新田・矢崎新田・関屋・欠(かけ)・平林・桑根井・牧内、八小区が東条・滝本新田・長礼・田中・加賀井というものであった。戸長・副戸長の選名もおこなわれているが、八月十二日に県内の村役人を学校出張所(文武学校)に集め、戸籍法の趣旨や戸籍調べの方法などを説明した。このとき、管内を六〇戸籍区とし、各町村ごとに一名の仮副戸長を任命して、各区内仮副戸長の互選で仮戸長を選名して上申するように伝えた。このときの案では、更級郡二ッ柳村の場合、会・原・御幣川・布施高田・布施五明・瀬原田・柳沢新田・石川の八ヵ村と組み合わされ、第一九戸籍区であった。八月十七日からは、松代県官吏が案により各町村へ出張し、戸籍調べの指導が始まった。村々では屋敷・氏名・番号を書き入れた略地図を用意し、家々には番号と氏名を出入り口に貼付し、また、村の入り口には「松代県管下第○○区内○○村○○番ゟ○○番ニ至ル」という標柱を立て、仮副戸長に任命されていた名主や村役人が官吏を案内した。


写真30 明治4年の水内郡栗田村の戸口報告書 (倉石里美所蔵)

 明治四年九月八日、松代県はこれまでの戸籍区を修正し、松代の殿町を第一区、水内郡の鬼無里村を第六二区とする新戸籍区を布達し、仮戸長を選名して申し立てるよう指示した。仮戸長は仮副戸長の互選ということになっていたが、村々ではその選定基準に苦しみなかなか決まらず、また、戸籍編成に必要な戸順に人名を記した略地図の提出もおくれ、十月に入っても督促の布達が出されている。戸籍区の修正で表5にみる一九戸籍区から二一戸籍区となった布施五明・瀬原田・柳沢新田・二ッ柳では十月十四日に二ッ柳村の仮副戸長春日健吾を仮戸長に昇格させて届けでた。春日は翌十五日に戸籍掛へ出頭し、戸籍届け等の雛形(ひながた)を下げ渡され、早々に取り調べて人別帳を差し出すように申し渡された。十一月の諸県統合で松代県が長野県に編入されると、戸籍編成もいっきに進み、十一月二十七日に旧松代県内の全戸籍区の仮戸長名が表6のように発表された。


表5 案を修正した最初の松代県戸籍区


表6 旧松代県仮戸長名 (明治4年11月)

 宗門人別帳にかわる戸籍帳の作成も、村によっては十一月末には下書きがおこなわれたが、修正などがあったり、また当初は年齢記載を辛未年(明治四年)と指示したものが、十二月晦日になって壬申年(明治五年)に変更されたりして、提出が明治五年二月になった村もあった。二ッ柳村では明治五年一月にこれまで別家・帳下などで宗門人別帳では頭名(かしらな)になっていなかったもの三二人を頭名にして戸籍帳面に載せたいという願いを提出したうえで、戸籍帳を作成した。


写真31 明治4年の副戸長辞令
(露木彦右衛門所蔵)

 いっぽう、長野県でも明治四年七月から戸籍編成に着手した。七月の布達では、①一村限り社寺・平民・えたという順に現在の戸籍を取り調べること、②社寺のほかは、県庁に近い村の入り口から役人・家格にかかわらず軒つづきの順に合冊し、戸籍を付すこと、③人数の多少にかかわらず一戸一紙に書くこと、④男は苗字、女は名のみを書くこと、⑤旧習で当歳(一歳)のものは人別に加えない村々があったが、出生のものはただちに人別に加えること、などを指示した。このほかにも戸籍別次の順(戸主・高祖父母・曾祖父母・祖父母・父・母・妻・子・孫・曾孫・兄弟・叔父母)、一戸一紙への記入例などを示し、この布達を見た日から一〇日以内に仕上げておくようにと通達した。いちおうの編成方針を示した長野県は九月に入って、改めて軒別に仮に紙札を番号札として貼付すること、東京寄りの入り口の家を一番とし、家並順に張紙をつけること、張紙は曲尺(かねじゃく)で長さ一尺二寸(三六センチメートル)・幅三寸五分(一〇センチメートル)とし、そのなかには「第○○区 何村何番 何誰(だれ)」と記すことを布達した。軒別への番号のつけ方や戸籍調べについては、松代県と同様に官吏が各町村に出張して指導した。十月には人口調べの雛形を示して、十一月二十日までに届けでることのほか、他の管下への寄留、送籍の有無を調べ、至急雛形どおりに鑑札・印章を願いでるよう通達した。戸籍編成をとおして、脱籍・浮浪の取り締まりもおこなったのである。そして十一月はじめに、長野県内に数ヵ村を統括する三八の戸籍区を設け、区内の戸籍事務を扱う戸長・副戸長名を発表した。東京に近い佐久郡に第一区を置き、水内郡の桑名川村(飯山市)ほか五ヵ村を第三八区とした。現長野市域には表7のように、第一七区と第三一区から第三三区までの四つの戸籍区が置かれた。これによって戸籍事務は戸長・副戸長がおこなうことになったが、一村にかかわる戸数人員の把握(はあく)はこれまでどおりに名主・組頭など村役人の仕事であるとし、戸籍帳の作成にも村役人があたった。


表7 現長野市域の長野県戸籍区

 長野村では善光寺の境内地にある茶屋をはじめ、小間物店などに番号をつけるのかどうか、また、そこに居住している人員は長野村のどの町に入れるのか、という問題があったが、多くの村で雛形どおりの戸籍帳が十一月末ごろにほぼできたようで、栗田村では「戸籍取調帳」を提出している。妻科村では至急提出ということで、下帳のまま提出してしまい、村方に手控えがなく、張札にも差しつかえるとして戸籍下帳の拝借を願いでている。その後修正が加えられ、翌明治五年、一般に「壬申(じんしん)戸籍」といわれる戸籍帳ができあがったのである。

 壬申戸籍は、宗門人別帳とくらべてみると、一戸に一紙を使い、戸籍区・屋敷番号・家の職業を肩書に明記し、各人の生年月日と戸主との続柄を記し、男子には全員名字をつけ、さらに、婿入り・嫁入り・養子縁組した場合にはその実家の村名・戸主名・職業などを記している。そのほかに氏神・檀那寺も記載し、かなり詳細なものとなっている。また、住所地主義によって、身分の違いにかかわりなく同一の戸籍帳に編成されたこと、戸主を主体に編制されたことも宗門人別帳との大きな違いであった。この戸籍がその後における租税徴収や徴兵制度の基礎台帳となった。