区長・戸長の任命

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明治五年(一八七二)二月末、長野県は東北信の村々を旧諸県から引き継ぐと、三月初旬に戸籍区の改正をおこなった。従来の諸県ごとの戸籍区を廃して、県内に統一した七二の戸籍区を設け、佐久郡に第一区、水内郡に第七二区を置いた。これによって現長野市域は、埴科郡の村々が第二八・二九区、更級郡の村々が第三三から三七区、高井郡の村々が第三八区、水内郡の村々が第五三から五六区および第六〇から六二区に属した(表8)。区画改正は朱引きした図面を添付して布達され、ただちに請書の提出を求められたが、区画変更を申しでる村も多々あった。西風間・東風間・茂菅・小市の四ヵ村も当初の戸籍区では不都合であったようで、三月二十八日、仮戸長矢島吾左衛門・仮副戸長露木彦右衛門は右の四ヵ村が第五四戸籍区に編入されたむね区内村々に通達している。区画割りはその後も尾を引き、更級郡第三六区の布施五明村は、七月二十日、瀬原田・柳沢新田との三ヵ村合併を県から申しつけられたが、柳沢新田村が納得せずいまだに合意にいたっていないとして県による説得を嘆願した。また、八月には松代の寺町が、伊勢町に付属させられて組頭を一人立てるようにいわれたが、人家も増えて六〇戸余もあるので、寺町を一町として独立させてほしいと県に訴えている。


表8 小区の戸長・副戸長および所属村一覧 (明治5年4月)

 新しい戸長・副戸長について、長野県は、明治五年四月二十五日、区ごとにこれまでの戸長・副戸長・村役人が選挙して決めると布達した。県が理想とした戸長・副戸長は、①読み書きがひととおりできるもの、②平生の行状がよろしいもの、③執筆ができるもの、④神祇道の心得がひととおりあるもの、の四条件を満たすものであり、このような人物を士族・卒族・旧神官・農工商を問わずに区内で公選入札(いれふだ)し、高点のものを県許の学校で検査したうえで補任する、というものであった。このとき、入札用紙の雛形を示し、五月十五日までに投票用紙を各区で取りまとめて提出するように指示したが、これが急きょ変更となり、四月付けで新しい戸長・副戸長が任命された。戸長の任命は少なく、大半が副戸長のみの任命であった。

 合県および区画改正にともなって、明治五年三月から四月にかけて、これまで各県によってまちまちであった村役人の名称・人員・給料などが見直され、統一された。村役人の任期は三年、名称も名主・組頭・百姓代とし、庄屋・長百姓・重立・頭立・見習いなどが廃止された。人員についてはどの村も名主は一人とし、組頭と百姓代は村高によって定員をきめた。たとえば、五〇〇石未満の村では名主一人・組頭二人・百姓代二人、三〇〇〇石以上の村ならば名主一人・組頭一〇人・百姓代五人としたのである。また、名主・組頭・百姓代の給料も村高によって規定し、さらに村役人の役用出費についても統一した。

 ところで、戸長・副戸長の職務は、本来は戸籍事務を取り扱うことにあったが、長野県は、明治五年四月、戸長・副戸長の任命のさい、戸籍事務のほかに区内の風俗の注意や布告類の触元などを取り扱わせた。このため、区が町村の上位に位置するようになった。こうしたなか、政府は同五年四月の太政官布告で、これまでの庄屋・名主・年寄を廃止し、新たに戸長・副戸長を置き、戸籍事務ばかりか土地・人民に関するすべてを取り扱わせることにした。長野県では、新戸長・副戸長を任命したばかりであったので、政府へ伺いのうえ、同五年十一月、区戸長事務章程を定め、従来の戸長・副戸長を区長・副区長、名主・組頭を戸長・副戸長と改称した。大半の区ではこれまでの戸長・副戸長が区長・副区長になったが、埴科郡では二八区副戸長の柿崎文左衛門が二七区区長、二八区区長に二九区副戸長であった矢野唯美、二九区区長に同区副戸長の横田数馬が就任した。

 区戸長事務章程では、区長・副区長は区内、戸長・副戸長は町村内を保護すべき職掌であるとし、戸長・副戸長が貢租を専務するのに対して、区長・副区長は、①区内の戸数人員を掌握し、②区内各町村の貧富、土地の厚薄、物産の有無、風俗の善悪を見定め、勧善懲悪や損益について戸長・副戸長を奨励し、③孝子・義僕・徳行・貞操など人の模範となるものを報告することとされた。さらにつねに各町村戸長・副戸長の曲直を監視してこれを匡正(きょうせい)し、事理の重きは報告すべしと、戸長・副戸長に対する指導監督の権限があたえられた。ここにいたって、区は戸籍区を脱して、県-区-町村という行政の中間機構に位置づけられたのである。

 町村においては、入札によって選出された戸長・副戸長・百姓代が、貢納のほか、これまでの村方の仕事をおこなったので大きな変化はなかった。しかし、明治六年四月になると、戸長・副戸長の跡役は入札高点者三人のなかから県が任命すると改められた。また、夫銭割りの帳簿は二冊作って区長に提出し、区長の検査後一冊を県に提出することが義務づけられた。戸長・副戸長の準官選化とともに、しだいに区長による村方への介入が強化されていったのである。