大区・小区制の編制

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明治五年(一八七二)十月、「大区小区制の設置」が布達された。これによって、これまでの戸籍法による区の組織は、大区・小区制によって整理統合されることになった。旧長野県が区画を再編成して大区小区制に移行したのは、同七年七月であった。

 長野県の区画改正条例によると、管下六郡を二八大区・一九〇小区に分け、各大区に正副区長各一人、各小区に正副戸長各一人、町村に用掛(ようがかり)・代議人を置き、大区に区会所、小区に小区扱所を置いて事務扱所とした。現長野市域関係の区画は、埴科郡が三大区一四小区、更級郡が三大区二三小区、高井郡が五大区三四小区、水内郡が七大区四五小区に区分された。一小区は平均二~三ヵ村であった。


写真32 明治7年戸長申付書
(中島凡夫所蔵)

 現長野市域における明治八~九年段階の編制の実態は、表9と図3のようである。南東部の埴科郡松代地区の第一三大区第三小区の清野村から始まり、北西部の水内郡の第二五大区第五小区の伺去(しゃり)真光寺村・北郷村にいたる九大区三九小区に区画されていた。資料のあるもののうちで最大の小区は第二三大区第三小区の長野町であり、戸数二一二四戸・人口七八一二人であった。第一四大区第三小区の松代町の戸数一八〇二戸・人口七五六四人がそれについでいた。最小は第二四大区第一小区の塩生(しょうぶ)村・繁木(しげき)村の戸数四七六戸・人口二五四九人であった。現長野市域についての正副区長の任命状況をみると、九つの大区のすべてにわたって区長の選任はなく副区長が代行した。この副区長が官選となり、第一三大区の前島吉徳、第一四大区の和田郡平、第二四大区の大日向直恕などは大区外から任命された。また、長野町を中核とする第二三大区では、正副区長とも七年七月現在空席であった。


表9 現長野市域の大区・小区制の区画 (明治8~9年)


図3 現長野市域の大区・小区の区画(明治8~9年)

 大区の行政事務の実態を、明治九年の第一六大区の「区会所日誌」からみると、副区長は日勤である。一月一日の病気以外の全小区の正副戸長全員が区会所に集まってなされた年頭の祝儀から始まり、十二月三十一日まで区会所の行政事務は間断なくつづけられた。その主な業務内容は、各小区の民費(予算決定)関係・徴兵事務・土木事業・戸長副戸長月給・道路里程調べ・田畑反別収穫調べ・共同火葬場・荷車人力車税・学校設立・物産調べ・風俗取り締まり・水利堰・交通・開拓・殖産など、政治・経済・社会・教育文化等の広い分野にわたっていた。また、小区の扱所では、戸長・副戸長が日勤し、用掛が必要に応じて出勤した。戸籍事務をはじめ諸調査の大区会所への報告事務、布達の徹底、租税の収納、訴訟の取り次ぎ、諸陳情の仲介など多方面の行政事務を処理していた。

 区長・戸長などは官選であるが、その給料は官費ではなく、すべて民費で負担させられた。区長・戸長などの給料を民費負担としたことに対して、批判的な新聞投書もなされていた。松代町の中沢保孝は、「区長・戸長の任務は、政府の方針を人民に説き聞かせ、民情を政府に伝えて上下の一体化をはかることにある。したがって、下位であっても任務は重い。しかも官選であるので、官員の一種である。その官員の月俸を民費に課するのはおかしい。このようなことがおこなわれるならば、一般の官員の給料もやがて民費となるであろう。区長・戸長の月俸を民費から支出すれば、官員でなく民雇となり、人民から軽蔑され、その権威も失われるであろう。用掛・代議員は民選だから民費が適当であるが、区長・戸長は官選だから官費にすべきである。大方の人びとの意見を聞きたいものである」と主張した。