大区・小区制のもとでは、これまでの町村は制度上では行政単位としての地位を失ったが、村寄り合いなどの伝統的慣行やしくみは生きつづけていた。
そこで政府は、村寄り合いにかかわる協議機関の設置を目的にした施策を推進し、明治九年(一八七六)十月に各区町村金穀公借・共有物取扱・土木起功規則を公布した。
明治十年八月に布達された区会要領によれば、大区会議員は大区選挙人がなり、町村の土木起功総代人も議事によっては参加できることになった。大区会の議事は、主として民費・公有財産・安寧・風儀取締り・公立学校・貧院・病院などであり、そのほか道路・堤防・橋梁・用悪水など、土地を開き物産を振興し水陸交通の便を開くことなどについてであった。
明治十一年二月、小学校資金出途方法と不就学児童の就学方法を議案とする臨時大区会が、県下いっせいに開催された。たとえば北第一六大区は、小区会議員(各二人ずつ)と町村の土木起功総代人(各一人ずつ)の計二七人によって二月二十四日から三日間開かれた(図4)。議長には、庁命により副区長の更級久衛が就任している。この会議では、まず総幹事一名を選出し、つぎに甲・乙・丙の各組からの組幹事一名を互選し議事に入った。第一議案は小学校資金捻出(ねんしゅつ)方法、第二議案は学齢の男女の就学についての諮問(しもん)であった。このような会議は初めてであるにもかかわらず、質疑・意見が活発に出され、参会者のほとんどが発言をしている。もっとも議論が沸騰(ふっとう)したのは、第一議案第五条の地価の調査をだれがするかという問題であった。原案が戸長・執事のみで実施するとしたのに対して、用掛・町村総代・代議人・伍長(ごちょう)一人を加えようという修正案が出され、それが可決された。その後、幹事一同から、町村総代・伍長は参加するにおよばずとの建議書が提出され、論議の末に修正可決された。
大区会は県から派遣された監視官や警察吏の立ち会いのもとに開かれ、上部機関への批判は許されなかった。議決事項もいわゆる建議や提案と同程度のものでしかなかった。しかし、大区会に各町村の土木起功総代人が参加できるようになり、やがて総代はしだいに住民の利害についての諸事項にかかわって、制限つきながらも協議権をもつようになり、住民代表的な性格をも果たすことになった。