警察・司法制度のはじまり

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明治四年(一八七一)十一月に太政官は県治(けんち)条例を布達し、旧長野県は、訴訟・裁判・警察の事務をおこなう聴訟(ちょうしょう)課を設けた。また、同五年一月には、県に配置されていた常備兵一小隊が解散となり、かわって捕亡吏が置かれた。

 明治七年一月に警保寮が司法省から内務省へ移され、検事職制章程と司法警察規則が定められ、翌八年三月には行政警察規則が制定された。この規則は、国法を犯そうとするものを探索・警防すること等を主目的とする内務省管轄の警察制度のあり方を示したもので、この性格は第二次世界大戦の終わる昭和二十年(一九四五)八月まで変わらなかった。

 行政警察規則の実施について長野県では、民費が過重であることなどを理由に明治八年七月から施行したいと上申したが認められなかったので、この規則の実施方を布達した。その内容は、一小区一人の邏卒(らそつ)は県が人選する、大区ごとに屯所(とんしょ)一ヵ所を設置し区内を巡邏(じゅんら)する、費用は官費とするが不足分は民費賦課(ふか)とするなどであった。

 明治八年十月には、邏卒は巡査と改称され、新たに各府県には警部(けいぶ)をおき、知事→警部→巡査の指揮系統が整備された。また、十二月には内務省から警察出張所・屯所の設置基準が示され、長野県は、岩村田・上田・長野の三ヵ所に警察出張所を設け、中野屯所を警察出張所に昇格させた。邏卒(巡査)は洋服まがいの服装に制帽をいただき、一二〇センチメートルぐらいの丸い樫(かし)の棍棒(こんぼう)をたずさえていたが、十五年以後帯剣するようになった。

 長野県第三号長野警察出張所が、長野町大門町旅籠(はたご)業旧本陣・藤井平五郎方に置かれたのは、明治八年八月二十日であった。管轄区域は、第一三大区邏卒屯所から第二八大区邏卒出張所までであり、これが長野警察署の前身となった。このように発足した出張所・屯所は、同八年十月二十四日、邏卒を巡査と改称するにともない、邏卒屯所が巡査屯所と改められた。さらに、同九年八月二十四日には長野・筑摩の両県が合県し、各大区は南北両大区に分かれ、管轄区名が改められた。大門町の藤屋にあった警察出張所は、同年九月二十二日大本願の境内の明照殿に移転した。その後同十年二月十五日には、長野県乙第一七号により長野警察出張所は長野警察署となり、その管下の八屯所はそれぞれ、警察分署と改称することとなった(『長野県警察史』)。

 廃藩置県後の明治五年から、各府県は府県裁判所の設置を開始した。裁判所としての独立した建物もなく、ほとんど司法の仕事は行政機関で処理されていた。裁判や監獄に関する仕事は、警察と同じく旧長野県の聴訟課で管轄した。そのころ旧長野県においては、拷問(ごうもん)による自白は一般的であり、杖(じょう)や笞(ち)などの軽い罪はたたき放しといって、善光寺大門町四つ辻の高札場に新しいむしろを敷いて四つ這(ば)いにはわせて尻をまくってたたき、その日は見物人で埋め尽くされるという状況であった。

 明治八年五月にいたって、ようやく裁判所の行政からの分離がすすめられ、長野県は東京上等裁判所の管轄となった。合県後の長野県には、松本に地方裁判所が設置され、長野には善光寺大勧進の一部を借りて区裁判所が開庁した。裁判所の組織は行政から独立したが、検事の職務や監獄事務は、ひきつづき県の第四課(旧聴訟課)の所轄であった。

 廃藩置県後、旧松代県・中野県の牢屋を移築して水内郡三輪村に設けられた獄舎には未決囚が入っていた。この獄舎には約六百七十人が在監し、常時二人の捕亡が看守していた。この未決監の牢屋は太い格子造りで、一段高い場所につくられていたので、あたかも動物園の檻(おり)のようであったという(『長野監獄沿革史』)。

 同時斯に、水内郡腰村(長野市)の獄舎には既決囚が拘禁されていた。懲役人の数が明治六年から七年にかけて増加して、獄舎や作業場がせまくなってきたので、長野県は敷地の拡張と獄舎・作業場の建て増しをおこなった。同七年の懲役人は男女合わせて二七一人で、逃亡者は一〇人にのぼった。


写真33 警察署と囚獄(監獄)の位置図 (明治12年「長野町全図」の一部)