長野町の成立と町村合併

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明治四年(一八七一)の廃藩置県が布告された当時の善光寺周辺地域は、長野村・箱清水村・妻科村・腰村・植松村(上松村)・問御所村などに分かれていた。

 明治七年十一月八日、長野村の市街化にともない、内務卿に町名への変更の伺いが出された。その理由として、人口が集中して家屋が密集してきたとしている。この伺いは許可され、長野町が発足した。さらに同年、県庁が袖(そで)長野の地に移転し、桜小路が桜枝(さくらえ)町に、阿弥陀院町が栄町に、天神宮町が長門(ながと)町に、堂庭が元善(もとよし)町に改称され、長野町は市街地としての体裁をととのえていった。

 明治八年十一月、長野町と箱清水村の各代議人・用掛・副戸長の連署をもって、両村を合併して長野町としたい伺いを出し認可された。合併理由は、「この二ヵ村は昔から地所が入り交じり不都合で、地番や地籍にも差しつかえる」であった。これによって、長野町は戸数二一二四戸・人口七八一二人となり、松代町をしのぐ県下最大の町となった。ついで同九年五月十日には、長野町周辺の町村でそれぞれ合併・改称がなされ、長野町・吉野村・鶴賀村・吉田村・宇木村・高田村・若里村の七ヵ村がそれぞれ発足した。

 大豆島地区では明治六年に大豆島村・松岡新田村が合併して大豆島村に、同九年に東風間村・西風間村が合併して風間村になった。柳原地区では同九年に中俣村と布野村が合併して柳原村となり、朝陽地区では同年に北堀村・南堀村・石渡村の三ヵ村が合併して福田村となった。七ヵ村あった長沼地区の場合は、明治六年に赤沼村と赤沼河原新田が合併して赤沼村に、つづいて同九年には長沼六地蔵町と長沼内町が合併して長沼穂保町村、長沼上町と長沼栗田町が合併して長沼大町村となり、それに長沼津野村があった。

 若槻地区には、稲積村・山田村・徳間村・上野村・檀田村・吉村・東条村・田子村のうち、同八年稲積村と山田村が合併して稲田村となった。また、安茂里地区では同九年に、小柴見村・平柴村・久保寺村・小市村の四ヵ村が合併して安茂里村となり、芋井地区では同九年に、八ヵ村のうち鑢村・桜村・泉平村・荒安村・新安村が合併して富田村となり、それに上ヶ屋村・広瀬村・入山村があった。小田切地区では同九年現在に、小鍋村と山田中村(この二ヵ村は以前に繁木村となり再び分離)があり、それに吉窪村と宮野尾村が合併して塩生村があった。

 松代地区においては、明治四年当時は松代町(殿(との)町・清須町・馬喰(ばくろう)町・城東町・紙屋町・有楽町・竹山町・紺屋町・代官町・馬場町・表同心町・表柴町・四ッ屋町・伊勢町・中町・荒神(こうじん)町・鍛冶町・肴(さかな)町・下田町・同心町・田町・十人町・御安(ごあん)町・松山町・新小越町・片羽町・廏町・石切町・寺町および袋町)、清野村、岩野村、東条村、田中村、加賀井村の一町五ヵ村に分かれていた。同九年五月三十日、この一町五ヵ村のうち東条村・田中村・加賀井村は合併して東条村となった。松代町・清野村・岩野村は合併への動きはなく同二十二年の市制・町村制の実施まで存続した。

 篠ノ井地区においては、明治四年当時は、布施高田村・布施五明(ごみょう)村・二ッ柳村・御幣川(おんべがわ)村・会(あい)村・横田村・石川村・東福寺村・中沢村・小森村の一〇ヵ村があった。同八年五月二十五日、二ッ柳村・御幣川村・会村・横田村の四ヵ村は、「耕地が入り交じり飛び地があり、一村の姿をなしているので改称・合併したい」との伺いを出し、一度は不許可になったが、その後認められて新たに正和(しょうわ)村が発足した。

 川中島地区においては、明治四年当時、上氷鉋(かみひがの)村・四ッ屋村および今里村の三ヵ村があり、そのまま同二十二年の市制・町村制の実施の時点まで存続した。のちの中津村地区には原村と今井村があったが、同九年に今井村は原村北原区を編入した。この飛び地合併は、地租改正にともない地順番号の記載に不都合をきたしたことからなされたものである。御厨(みくりや)村地区には戸部村と布施村があったが、両村は八年に藤牧村の西藤牧区とともに合併して御厨村となった。

 更北地区には、中氷鉋村・下氷鉋村・広田村・藤牧村の四ヵ村があったが、明治八年に広田村・藤牧村の両村は戸部村の一部とともに合併して田牧村となり、翌九年三月には中氷鉋村・下氷鉋村が合併して氷鉋村となった。また、同年五月に上真島村・下真島村が合併して真島村となり、上小島田(かみおしまだ)村・下小島田村の両村が同八年に合併して小島田村となった。青木島地区では、明治八年には青木島村・綱島村・大塚村があった。

 信更地区においては、のちの信田村には境新田村・氷熊(ひぐま)村・小田原村・軽井沢村・田野口村・灰原村・赤田村・高野村があったが、明治九年に氷熊村は有旅(うたび)村浅野区を編入した。つづいて同年、境新田村・氷熊村が合併して氷ノ田村となり、小田原村・軽井沢村が合併して田沢村となった。のちの更府村には三水(さみず)今泉村・山平林村・吉原村・安庭(やすにわ)村があったが、同五年四月に三水今泉村は名称を三水村に変更した。つづいて同九年に山平林村は有旅村の飛び地桜井区を編入した。

 若穂地区には、明治九年には保科村・川田村・綿内村があり、のちに川田村に入る更級郡牛島村があった。

 七二会(なにあい)地区には、瀬脇(せわき)村・五十平(いかだいら)村・倉並村・橋詰村・笹平(ささだいら)村・大安寺村・岩草村があったが、明治九年五月三十日この七ヵ村は合併して七二会村となった。