大区・小区制のもとでは、村は行政単位とは認められなかったが、生活共同体としての村の役割やその伝統を無視しては、大区・小区制はその機能を発揮することはできなかった。したがって、村の統制を維持し、共同体としての生活を規制していくための村規約が、依然として大きな役割をもつことになった。これは、寄り合いの申し合わせを成文化したもので、村人の具体的な生活の規範ともなっていた。その内容は、日常生活・農作業・社会規範・村行事などさまざまであった。
廃藩置県後の明治五年(一八七二)、水内郡三輪村の村規則の主たる内容はつぎの分野にわたっている。①納税の期限や夫銀・小作年貢のこと五ヵ条、②四季の祭礼のこと三ヵ条、③鐘鋳堰(かないせぎ)の出役・管理のこと四ヵ条、④村役人の出県にかかわる手当てのこと一ヵ条、⑤脚夫銭のこと二ヵ条、⑥小触(こぶれ)役のこと一ヵ条、⑦区内臨時会のこと一ヵ条、⑧夜番・昼番のこと一ヵ条、⑨役元の寄り合いのこと二ヵ条、⑩役だんす扱い一ヵ条、⑪神武天皇祭礼のこと一ヵ条であった。村規則の末尾には、「右の条目は、村内一同がよく相談して取り決めたことなので、以後厳重に守るべきである」と記されている。
さらに、村規則は信賞必罰で、違反者に対してきびしい罰則が決められていた。その具体例として、第二二大区第七小区三輪村本郷組の同八年二月の「組内法制規則」の内容をみると、つぎのようなきびしい取り決めがみられる。①ばくちをしたものは過料金一円五〇銭を出し、親類一同連印の詫書(わびしょ)を提出すること、②遊女通いをしたものは過料金一円と詫書を提出すること、③集会のおり大酒を飲み高声を出し喧嘩(けんか)したものは、家族や隣家で引き取り、過料金五〇銭を差しだすこと、④野荒しやなりずもく(果樹)を荒らしたもの、ならびに権力者に頼り強引なふるまいをしたものは、過料金一円を出し、組内集会のとき赤色の頭巾(ずきん)をかぶって出席すること、などであった。このように近世以来の村決めが、大区・小区制の時代にも生きつづけていたのである。