民費と町村財政

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大区・小区制下の地方財政のほとんどは、住民の直接負担である民費によってまかなわれていた。政府は明治六年(一八七三)七月の地租改正条例をはじめとする新しい施策をやつぎばやに打ち出して、国の地方への行政委任事務量は増大の一途をたどった。

 第一六大区(更級郡北部地区)の明治七年十一月の「民費書」所載の支出内容は表10のように、懲役場囚獄営繕、道路・堤防・橋梁修繕、布告布達にともなう筆墨紙、順達夫賃、正副戸長の役所への出頭旅費、正副長以下の給料、村社営繕費、諸税の収納関係費、里程調費、戸籍調費、徴兵下調費、学校費、道路掃除費、用・悪水道費、洪水対策費、井戸堰守の給料、国役費、駅逓費、村用雑費など多岐にわたり、とくに国の行政委任事務に関係した義務的な経費が大部分であった。


表10 第16大区 民費の内訳 (明治7年)

 第一六大区において金額的に多い費目として用・悪水道費があげられる。これは近世以来、犀川取り入れ口の用水の導入工事やその用水路および排水路の開発・維持管理の費用と考えられ、この関係の負担の大きさを物語っている。つぎに多いのは道路・堤防・橋梁修繕費であり、道橋の修繕や犀川の護岸工事へ多額の民費が投入されている。全体的にみて、大区・小区制によって町村の行政的地位は否定されたものの、財政的にはその主要な部分を民費に頼らざるをえない状態であったことを示している。民費の費目・賦課の方法が全県的に統一される明治十一年四月までは、民費の徴収やその使途において、南信と北信には大きな相違があった。