地租改正事業は、明治六年(一八七三)七月公布の地租改正法にもとづいて実施された。これは近世の年貢納入者である農民を私的土地所有者として認め、租税を負担させるものであった。そのためには、まずすべての土地を地価で評価し、その三パーセント(十年より二・五パーセント)を地租として徴収した。政府はこの財源をもとにして、富国強兵政策を推し進めようとした。
地租改正事業の準備段階として、壬申地券(じんしんちけん)調べの事業がある。明治政府は、明治五年二月に土地永代売買の解禁をおこなうとともに、「地券渡方規則」を定めることによって、譲渡される土地の売買価格を記載した地券証(壬申地券)を土地所有者に交付したが、同年七月には一般の土地も調査・交付の対象とした。この事業は従来からの貢租には手をつけず、売買地価を調べる目的と、旧来の検地帳など公簿に記載されていた反別と実際のそれに大きな食い違いがあったため、隠田・縄延びなどを改めることによって、面積の正確を期す目的で実施された。丈量(じょうりょう)(測量)は地主立ち会いで、一筆ごとに六尺間縄(けんなわ)をもって縦横の長さを書きだした。
この事業の一つの成果である「田畑出生米(とりいれまい)地代金積(つもり)取調帳」には、田畑一筆ごとに字(あざ)、地番、土地所有者、旧反別と新反別、石高、地代金が記載されている。この地代金の算定方法は、田畑を上・中・下に分け、その田畑ごとの収穫米から、貢米(年貢米)・村費(米)・耕費(米)分を差し引いた残り(利得米)に、一定の金額をかけたものであった(史料1)。
この帳簿は、明治六年春から夏にかけて、各村から県に提出されている。これにもとづいた地券の交付は、同年七月の地租改正法公布後も土地所有者を安堵(あんど)させるために継続され、同七年五月十日には、半分以上下げ渡し済みとなっていた。
長野県で地租改正事業が動きだしたのは、明治八年四月の「地租改正ニ付人民心得書」を布達してからであった。事業は、まず土地の再丈量から始められた。村によっては従前の丈量が正確でなく、耕地も合併されていたものは引き裂き、反別を改める必要があったからである。丈量には、土地の形状を長方形に見立てて面積を出す十字法と、三角形面積の和として積算する三斜法があったが、長野県では八〇~九〇パーセントは、前者の簡便な方法が用いられた。ちなみに更級郡下氷鉋(しもひがの)村の「再縄量(じょうりょう)取調野帳」(明治八年十一月二十二日)では、より正確な三斜法が用いられている。
これと並行して、各村では地位(ちぐらい)を段級別に定める作業がおこなわれた。地位とは、運輸の便否、耕作の難易、干・水害の有無、地味の良否などによって耕地をランクづけするものである。そのために農民から反当たり収穫量を「開申」させたが、第一六大区(更級郡の西寺尾村・布施村)では明治八年十月に反当たり小作料収入を調査している。これが確定すると大区ごとの村位が決まり、田畑宅地ごとの村等級表が完成した。
この段階で、県は地租改正事務局に田畑反当たり収穫米の目途を問い合わせた結果、田反当たり一石三斗八升七合三勺、畑反当たり五斗四勺の指令がくだった。事業の大詰めを迎えた明治九年五月二十三日に、各区区長・戸長が県庁内講習所へ招集され、まず県から口達をうけた。県案は一大区単位の反当たり収穫量であるから隣大区に接続する村の収穫量と不適合のないよう、関係者相互に協議を尽くし、平準・公平を保つべきであるとするいっぽう、県案に帰結しなければ公正が維持できないとくぎをさしている。この口達のあと県案が示された。
この下げ渡された県案の反米(一反当たりの割り当て米)は、あまりにも重いものであったため、関係者は受け入れに難色を示した。明治九年五月三十一日になって、権令(ごんれい)(知事)、権参事、本省役人らの臨席のもとにこんこんと説諭され、けっきょく県案どおりに請書(うけしょ)を差しだすことに決まった。戸長らが県案を検討した結果、実地するのに適当な目途であるため、書面の地価をもって改正されても少しも迷惑でないという内容であった。事業は同九年六月初めに完了し、同八年にさかのぼって地租が賦課された。