改正事業によって、長野県全体としては一一パーセントの減租となったが、現長野市域の状況は表11のようになっている。明治七年(一八七四)の封建的貢租とくらべた同八年地租の増減割合を町村別に分類してみると、七〇パーセント台が二〇町村、八〇パーセント台が二二町村でもっとも多い。すなわち県全体よりも減租になっている。租税が重くなった村は、幕府領の一部や善光寺領であったところに多く見られる。長野町は七・二パーセントの増租であるが、もと善光寺領であった箱清水村の編入が大きく影響していると思われる。
いずれにしても、全体として農民の意に反した高い租税であったことには間違いない。地租のもとになる地価の算定方式は、収入(収穫米×米価)から生産費(種もみと肥料代)と租税分(地租と村税)を差し引いた残り(地代)を利子率(平均六パーセント)で割ったものである。したがって収穫米が多いほど、また、利子率が低いほど地価を押し上げることになる。現長野市域の大区別の一反当たりの反米(たんまい)・反大豆と利子率の関係をみると、田畑ともに第一七大区三小区(綿内村)、第一三大区(松代町・柴村など)、第一四大区(塩崎村など)は高地価となり、いっぽう山間地の第二三大区四~七小区(富田村・上ヶ屋村など)や大河川沿岸の第一六大区八小区(真島村・牛島村など)は、低地価におさえられている。
各村で見積もられた田畑の収穫米・大豆(量)がそのまま県に採用されたわけではなく、県は独自に収穫量をはじき出している。この県の決めた「押しつけ反米(反大豆)」と農民の見積もった収穫量の差がどの程度あるかを第一六大区でみると、四小区、七小区では、押しつけ反米(反大豆)はおよそ三〇パーセント増であったが、七小区の牛島村と八小区村々は五〇パーセント以上一二〇パーセントにおよぶいちじるしい増加率となっている。
このような明治九年五月末に下げ渡された県案をめぐって、県と戸長側の攻防が一週間つづいたが、農民側にとっての争点の一つは、犀川・千曲川の堤防費や用水費と地租の関係であった。第一六大区大豆島(まめじま)村では、反当たり堤防費として田五八銭一厘、畑三五銭七厘が毎年徴収されていたうえに、地租として田一円一三銭三厘、畑六九銭が課せられるのである。この二重負担を考慮してか、大豆島・川合新田両村(八小区)の収穫見積もりはきわめて少なく、逆に県案の田反米・畑反大豆のそれぞれに対する増加率は一・五倍以上になっている。県案では堤防費・用水費をまったく考慮しない高地価設定だったといえよう。これは大豆島・川合新田両村が五月三十一日に県の説諭を受け入れた結果であるが、その背後には堤防費・用水費は県として別途取り調べ中であるので、村としては格別の配慮を期待しての対応であった。『長野県町村誌』によれば、川合新田村の場合、その反米の大幅引き上げに加えて、丈量の結果、耕地面積が六六町から九二町歩に増えたことによって、七年の貢租一五三円から八年の地租六三三円に、現長野市域きっての飛躍的な増大を示している。
これに似た県側の甘言に類する対応は珍しくなかった。長沼村の嘆願書によれば、湿地で地租改正以前には破免(定免不適用)ないし引米(減免)の措置を講じてもらっていたので、改正事業後も毎年検見(けみ)を受けたいと村民一同嘆願したが、こんこんと説諭されたうえ、五年もすれば更正もあるだろうからといわれたので、わずか五年間と心得て、請書を提出した。もっとも、明治七年五月の太政官布告第五三号に五ヵ年間地価を据え置くべき旨が規定されていたから、県のいう五年という期間は根拠のないものではなかった。じっさい、同十三年五月太政官布告第二五号によって、とくに公平を欠く地価に対しては、長野県をはじめ全国一八県で実地調査のうえ、地価の減額修正が許された。ただし制約があって、一つは修正額に限度枠があったこと、もう一つには地価修正は一町村または一郡区単位でおこない、村内の一大字、特定の筆のみを取り上げて調査することのないよう指令されていた。したがって長沼村の「湿地帯」の高地価も修正の対象外であったことは容易に想像できる。
また、更級郡東福寺・杵淵(きねぶち)・西寺尾・小森・田牧・御厨(みくりや)の各村において下堰(しもせぎ)用水費がきわめて高額で、天然水・池水の水費とくらべて雲泥(うんでい)の格差があったので、県案を受けかねる意向を示したところ、下堰用水の件については、県としても官費負担として斟酌(しんしゃく)すると聞かされ、請書を出した。しかし、その二ヵ月後、用水組合はその件については聞き届けられないとの通知を県から受け取った。