官有地の引き戻し運動

99 ~ 101

田畑・宅地の地租改正事業が終わって、引きつづき県は山林原野の事業に着手した。この事業では山林の官民有(かんみんゆう)区分や従来からの入会(いりあい)権の処理に手間どったが、明治十一年(一八七八)中には完了している。その完了とともに各地で異議申し立ての請願運動が展開された。

 地租改正によって山林が官有地(国有地)化された場合、従来どおり、有償で秣場(まぐさば)を利用させてほしいという嘆願は受け入れられやすかった。しかし、官有地の民有地への引き直し(引き戻し)運動に対しては、国はきびしい対応をしている。

 前者の事例としては、飯綱(いいずな)山にまつわる上水内郡上ヶ屋村(長野市芋井)と、大峰山に関する箱清水村(同)があげられる。上ヶ屋村では飯綱山の入会秣場六五〇町歩が官有地となったため、明治十年七月に、従来どおり借地料を支払って秣・薪(たきぎ)を採取できるよう取り計らってもらいたいと嘆願し、聞き届けられている。また、箱清水村では田畑の刈敷(かりしき)(肥料)として、大峰山の落葉や下草を金一〇円で払い下げてもらいたいと明治十一年十月に申請し、許可されている。


写真37 信仰の山であるとともに農民の大事な秣・薪採り山であった飯綱山

 いっぽう、官有地の引き戻し運動としては、まず上水内郡西条村三登(みと)山の小字境ノ沢部分林(四町五反歩)について、同郡檀田(まゆみだ)村(長野市若槻)村民三〇人が、明治十七年十月以来、運動を進めていた。民有地としての証拠書類は、官有林を管理する木曽山林事務所から農商務省へ送り届けられた。同十八年十一月になって、提出された書類に疑義があるのでその信ぴょう性を調べるようにとの、農商務卿から長野県令あての通達を受け、県は県警察署に調査を命じた。

 その結果、つぎのような事実が判明し、農商務省に上申されている。①証書の墨色筆蹟は真正と認めがたい。②享保(きょうほう)三年から同十年までの檀田村肝煎(きもいり)は金兵衛であったが、戸長から差しだされた享保八年三月付けの証書は七左衛門と記されている。③山年貢籾二俵余を上納していたとあるが、何方へ上納したものか不明である。④三登山は昔から五四ヵ村入会(いりあい)秣場であって、各村民が不正をなし、幕府の裁許を仰ぐことがたびたびあった。これらにもとづいて、農商務省がきびしい判断をくだしたことは容易に想像できよう。

 もう一つの事例をあげると、上水内郡七二会(なにあい)村橋詰組では、山野一七町六反余の共有地が地租改正によって官有地に編入されてしまった。それは再縄量のさい、森島県属が巡回してきて、五人以上の共同持地は官有地として取り扱うよう指導した結果である。これによって村民は生活・農業経営に難渋したため、明治十五年十一月に、特別の配慮をもって民有地に引き直してほしいと県に請願したが、同十八年六月に拒否されている。

 村では従来から民有地であったことの証拠物件六点を添えて、明治十九年四月に再度請願した。つぎのような内容であった。①百有余年の間、租税を上納してきた。②村民は秣山にたいして主権をもち、現に売買してきた。③秣山の所有者として保護を加えてきた。④秣山の樹木を売却し代金を分配した。⑤壬申地券(じんしんちけん)調べのさい、民有地と定められた。⑥秣山がないと農業ができない。

 県は明治十九年四月になって調査の結果、再度拒否の回答を出している。その理由はつぎのような乱暴なものであった。「壬申地券は人民に所有権がなくても『本地』のようなものには一般地券を発行することになっており、所有を証明するに足りない。また売木、売買地所は出願地以外と認められ、たとえ出願地内であったとしても地租改正時に申し出なかったので無効である」。

 秣場を失うことは肥料の欠乏を意味し、農業に大きな支障が出る。肥料を求めて七二会村から長野まで買い出しに行くにも道路が不便なため、人馬に頼らざるをえない。その費用は肥料価額以上となってしまい、とても細民には耐えがたいものであった。したがって県のこうした裁決は農民の没落をうながす結果になったのである。