維新政府は、明治二年(一八六九)の段階で財政出費に苦しむ諸藩のために、藩士の家禄(かろく)の改革に踏みきった。版籍奉還ののち同年十二月に、まず士族・卒族の別を決めるとともに、禄制二一等を定めて俸禄(ほうろく)を削減した。
松代藩では、薩長土肥の雄藩の版籍奉還にならって、明治二年六月に藩主真田幸民(ゆきもと)が版籍奉還を許されるとともに、松代藩知事に任命され、秩禄(ちつろく)として旧封地(ほうち)現石の一〇分の一をあたえられ、華族となった。そして、松代藩の家臣は、徒士(かち)以上のものは士族に、足軽は卒族に編入されている。真田幸民知藩事は同年十二月、藩の職制を定め、翌三年九月、政府が各藩の藩制を改めたのにそくして、松代藩もまた職制を改めている。松代藩では、藩士の知行地は没収されて、すべて廩禄(りんろく)(米金の俸禄)として支給され、その六分を籾米(もみまい)で支給し、四分を現金で支給することになった。藩知事は同年十二月につぎのような布告を発している。
先般御版籍御返上、さらに御藩知行に任ぜられ、御支配地総現石十分の一を以て御家禄と定められる。御藩中士族より卒族に至るまで、右の御振合にもとづき給禄適宜御改革これあり候様朝命蒙(こうむ)られ候につき、今度量入制出の御目的を以て時世の趣(おもむき)御熟慮の上、別帳凡例の通り御改革、一統御蔵米渡し仰せいだされ候、これによりいずれも難渋(なんじゆう)にはこれあるべく候えども、朝廷御趣意のほど深く体認奉り、いよいよ以て節倹(せつけん)相守り廉恥(れんち)の士風失わざる様同心協力、幾重にも勉励致すべき旨御意に候、
このときの禄制を「適宜禄(てきぎろく)」と称したが、家臣にあたえられた禄の割合の基準(給禄適宜割合凡例)は、表14のとおりであった。以前からの地方(じかた)知行はすべて御蔵米渡しとなり、一四〇〇石は一〇分の一として、この籾(もみ)二〇一俵四斗四升とし、以下五〇石は一〇分の六分九厘余の割合として、籾五〇俵の目安をもって給禄し、その間の高はその割合に準じた。五〇石比で無足(むそく)(扶持米給付の下士)の分は、高値をもって一八石七斗九升四合の給禄二四俵と定め、その間の高はその割合に準じた。このほか下級の家臣についてもそれぞれ細かい基準があり、たとえば足軽格一五俵二人扶持は一七俵と定めるというようになっていた。
以上のように、給禄の割合を決めるに当たって、知行高の少ないものの割合を高くすることによって、上下の格差を縮め、それによって藩の財政支出を極力おさえる方針をとったのであった。しかし、明治四年の廃藩置県によって禄制改革は中止されている。