秩禄処分

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明治政府は維新の指導勢力である士族の秩禄(ちつろく)負担を解決するために、明治六年(一八七三)十二月に秩禄奉還の法を定め、家禄(かろく)・賞典禄(しょうてんろく)一〇〇石未満の士族で奉還を願うものは、永世禄六ヵ年分・終身禄四ヵ年分を現金と公債証書によって支給することにした。翌七年十一月には、同じく一〇〇石以上の士族にも奉還の制を設けた。長野県下で奉還をうけた士族は、たとえば旧竜岡藩は六八パーセント、旧飯山藩は五〇パーセントだったが、旧松代藩の場合はきわめて少なく、たとえば第三大区四小区(松代町の清須町・代官町など)の士族七三九戸のうち、奉還戸数はわずかに三三戸、五パーセントに満たなかった。

 政府は明治六年徴兵制を施行して士族の常職を解き、地租改正を実行して武士階級の土地領有制を廃止していくので、禄制をつづける根拠がなくなり、しかも家禄支給高が政府歳出の二八~四七パーセントを占めて国家財政を圧迫したため、同八年九月家禄・賞典禄の現石支給をやめた。そのために明治五~七年三ヵ年平均貢納石代(こくだい)相場(米価)による金禄の支給を布達、同九年八月金禄公債証書発行条例を公布した。これが、秩禄処分である。同十年から実施して、家禄制度は全廃された。


写真41 華士族家禄賞典金禄調帳
(東京都公文書館所蔵)

 合県後の長野県には士族四九二四人がいたが、これに金禄公債二四一万六五二七円が支給された。一人当たり四九〇円で、全国士族平均五四八円より五八円低い。なお支給額のうち公債は二三八万五一六〇円、現金三万一三六七円であった(『族禄処分録』)。北第一三大区四小区の旧松代藩士族をみると、士族七三九戸のうち家禄奉還士族三三戸、無禄士族三二戸を除く六七四戸が金禄公債証書を受けとっていたが、その利子総額は年間に二万五六〇四円四五銭で、一戸当たりにすると約三八円であった。明治十四年の長野県の巡査の月俸が七円六〇銭であるから、旧松代藩士族の年平均利子はその半分にもおよばず、公債の利子だけではとても生活は無理だった。しかも、これを階層別にみると、最高の河原均のように戊辰(ぼしん)戦争で活躍したため賞典禄が多かったので三一九〇円になり、知行高一四〇〇石の大身矢沢右馬之助二七七〇円より多かったものもいるが(『松代町史』上)、表15のように五〇円以下が六四・三パーセントもおり、そのうち二〇円以下は二一・八パーセントというように、零細利子生活者が多かったのである(この表は出典史料の不備のため正確さを欠くが、傾向はわかるので掲げる)。


表15 金禄公債利子階層別戸数と割合

 こういう状態だから、士族たちはいつまでも公債利子に頼ってはおられず、全国的には明治十七年には約八割の公債が士族の手から離れ、松代在住士族の場合は、後述のように同十三年には禄券の半分は他人のものになっていた。『長野新聞』(明治十一年十一月八日)は、金禄公債を下付された士族が、二、三年のうちに困窮腐敗して社会に悪い影響をあたえるので、特別の規制が必要だとの論説を載せたが、それが現実になった。