明治十一年(一八七八)に、埴科郡松代町から長野県に提出した「村内概況調査」(県庁文書)によると、「自営の方向を定めたものはおよそ一〇分の一で、自立の第一は禄券利子、および農事・養蚕・銃猟・漁業等である。自営の方向を定め兼ねるものは一〇分の九で、そのうち生計に窮迫(きゆうはく)するものは一〇分の二ぐらいか」、としている。また、同十三年に埴科郡長滝沢久武から、県令楢崎(ならさき)寛直に上申した書類では、「物価騰貴(とうき)のため士族の糊口(ここう)(生活)は困難であり、農工商の術(すべ)を知らないために破産するものも少なくない。金禄公債の過半は他人のものとなっている」、と窮状を述べている。松代藩士族の多数が生活する松代町が、同十六年十二月に県令大野誠へ上申した取調べ書では、「士族は官公吏・軍人・巡査・学校教師・神官・医業などをし、旧藩時代に遊猟漁するものが多かったので、今も兼業で漁猟するものがいる。養魚者は多く士族である」と述べている。
松代町に接する西条村にも士族が多く、村民の六割に達するが、明治十四年七月の県令大野誠への取調べ上申書によれば、「士族の男子は農業に従事し養蚕を兼業、農間に採薪して売り、製糸機械を学び、水車を業とするなど職業が多様である。農地が狭いので収穫が少なく三分の一程度を補うだけなので、給禄で生計を維持している。女子は士農とも男子と異なり、養蚕・製糸を専業とし、冬春は自用の機械・繍縫(しゆうほう)を業とする」と述べている(『長野県町村誌』東信編)。
士族のなかでも金禄公債の多寡(たか)や就業の状態により貧富の差があったが、明治十年の西南戦争を契機とする同十二年の米価・物価騰貴は、士族全般に打撃をあたえた。長野県当局は、従来の士族の就産をさらに積極的に進めるために、士族授産を推進することを考え、各郡長に郡下の士族授産を構想させた。埴科郡長は、「旧大名の俸禄を基準にして(一万石につき資金一万円といった)、官金でも民有でもない勧業就産の資金として、「御下金」をもってその地に適当な産業を授け結社をつくる。社名は松代藩なら松代社と称し、社員は名望篤実なものを選挙し、社則・就業方法を決めて県庁に具申し、その裁定を得て施行する。官も社掛りを設けて取り締まりに注意する」、という具体案を提言した。
士族授産には、①民部省または大蔵省交付金、②道府県勧業委託金、③内務省交付金(内務・大蔵・農商務の三省貸下金)があった。旧筑摩県もふくめた長野県下の、明治十五年現在士族授産九件は、開墾一件、牧畜四件、藍(あい)改良一件、製紙業三件であり、長野市域の士族授産は表16のとおり三件であった。
士族授産として長野県下で唯一成績甲をつけられた埴科郡西条村東六工(ろっく)(松代町)の六工(ろっこう)社は、西条村六工製糸場の名で明治七年八月操業した。松代藩士六人(西条村五、松代町一)と平民二人(西条村・松代町各一)の八人が総額二〇〇〇円の出資金を出し、士族大里忠一郎の三五〇円を最高に士族青山喜平次・同宇敷則秀が各三〇〇円を出資した。士族の工場といってよい。このほか、製糸場建築のおり、埴科・更級両郡の三人から計五五〇円を借用し、同九年には松代町の生糸改会社有志から三〇〇円、西条村民から一〇〇円、計四〇〇円を借用した。これらは、製糸場の固定資本に投入している。
六工社の中心大物大里はもとは農民で、旧高四両二人扶持の下級士族の養子となり、藩の買物方、戊辰(ぼしん)戦争の輜重(しちょう)方、松代商法社の末席などをつとめ、明治三年の松代騒動で焼き討ちされるなど、きびしい体験を重ねた。製糸業の技術は、富岡製糸場に行って習得した海沼(かいぬま)房太郎や横田英などを用いて態勢をととのえ、経営実務は町人たちの助力を得た。しかし、経営難がつづいたので、士族授産事業に助けを求め、明治九年不許可になった政府拝借金を同年再申請して、田畑を抵当に一〇〇〇円の貸し下げを受けた。さらに、秩禄(ちつろく)処分で得た金禄公債証書を抵当として、内務省(三省)貸下金一万五〇〇〇円の貸し下げに成功し、規模を拡大して五〇人繰りから一〇〇人繰りとし、工場を新築した。
六工社がいちおう成功した理由は、六工社創業以前に松代藩領に製糸業が発達したという前提があり、富岡製糸場からの最新の技術導入の効果、開明的下級士族大里らの努力、多数士族労働力を擁する松代に政府の士族授産が有利に働いた、ということが考えられる(上條宏之『富岡日記』)。
長野農牛貸付会社は、荒木佐右衛門・宮沢七右衛門・池田元吉・矢嶋銀右衛門らが発起して、上水内郡西条村(長野市浅川)に設立された。牧畜業は、政府・長野県でも草創期の産業として力を入れ、明治十三年十月中に農商務省から特別貸与金が許容されることが同会社に知らされ、宮沢を社長とし社務を整備し、明治十四年創業した。農商務省貸下金は、五〇〇〇円であった。農牛貸し付けの事業は、具体的にはわからないが、牧牛なので牛病の伝染に備え、社員金井二三治を下総(しもうさ)(千葉県)の農務局獣医校生徒として派遣した(『信濃毎日新聞』明治十四年十一月十六日)。
松代牧畜会社は明治九年創業され、旧松代藩家老河原理助・前田好謙らが中心となり、資金難のため同十三年九月県から資金四〇〇〇円の県勧業委託金を出資された。松代町に本社を置き、小県郡傍陽(そえひ)村(真田町)に牧場を設け、牛の繁殖・売買・貸し付けなどで農耕・運搬に役立て、乳牛しぼり・滋養補給なども目的とした。同十四年の放牧頭数は五、六十頭であった。
成績は、長野農牛貸付会社は乙、松代牧畜会社は丙で、松方デフレ下の牛価格の下落によって失敗に終わった。