四民平等と松代藩

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近世社会は、身分制度を根幹としてなりたっている社会であった。士農工商の別とそれぞれの内部における身分差があり、さらにその最下位にえた・ひにん身分が位置づけられていた。これらの不当な身分差別に対して、幕末には下級武士・知識層・豪農商のあいだから不十分とはいえ「四民平等」を求める声が高まり、えた・ひにん層のなかから差別の不当性に抵抗する動きがあらわれてきていた。国民国家の確立、資本主義の発展をめざす維新政府もその前提として、制度上から封建的身分の解消に取りくんだ。

 明治二年(一八六九)六月の秩禄奉還(ちつろくほうかん)後に公卿(くぎょう)・諸侯(しょこう)を華族とし、十月諸侯の一門以下平士までを士族、同心・足軽などの軽輩を卒族(そつぞく)とし、農工商をまとめて平民とした。医師・学者・僧尼・神官などは、士族・卒族と平民の中間的なものとしたが、身分的にはしだいに解消した。同三年九月、平民に姓が許可された。幕藩時代に姓(名字)を公的に許された農工商民は別として、私的に姓を使っていたものも、公的に使用できるようになったのである。翌四年四月平民に乗馬を許し、八月に散髪・廃刀の自由が認められ、士族の特権が弱められた。同月各身分間の通婚も原則的に認められた。この流れのなかで、いわゆる「えた・ひにん等廃止令」が布告される。翌五年一月、卒のうち世襲のものは士族に、そうでないものは平民に組み入れられ、これによって身分は、皇族・華族・士族・平民の四つに整理されたのであった。

 松代藩では、他よりおくれて明治二年六月版籍奉還をした藩主真田幸民(ゆきもと)が知藩事となり、家禄を支給されて華族となった。のち伯爵となる。同年松代藩知事は、士族・卒族からえた・ひにん、社寺にわたる戸数・人口を太政官(だじょうかん)に報告した。翌三年にかけて、その他の信濃諸藩からも同様に報告され、のち『藩制一覧』にまとめられた。表17によって松代藩の身分別戸口をみると、士族・卒族の戸数は八・五パーセント、人口七・七パーセントであり、一割に満たない。平民は戸数八八・二パーセント、人口八九・二パーセントで九割に近く、えた・ひにんは戸数一・〇パーセント、人口一・四パーセント、社寺は戸数二・三パーセント、人口一・七パーセントとなっている。参考に信濃一一藩の身分別戸数・人口の平均割合を載せた。これはあまり精度の高いものではないけれども、松代藩は卒族が高く、えた・ひにんもやや高い。


表17 松代藩身分別戸口の割合 (明治2年)

 以上のように、「四民平等」の名で封建的身分制度の解体は進められたものの、華族・士族などの旧身分の特権的な階層が、政治・経済・社会・文化などの面で指導力をもち、平民のなかでも町村の伝統的家柄・家格や生活上の特権などは変わらず、絶対主義国家体制を地域社会・家で支えるしくみに組みこまれていた。