いわゆる「えた・ひにん等廃止令(以下廃止令という)」の発せられるまでは、松代藩もえた・ひにん身分を幕藩時代と同じように法制的に支配した。慶応四年(一八六八)の戊辰(ぼしん)戦争のとき、旧幕府歩兵頭古屋作左衛門が飯山藩を攻撃したのを救援するために松代藩兵らが飯山に向かったが、そのさい松代藩の農兵(猟師)・神主らとともにえた身分およそ四〇〇人も動員されている。白鉢巻き・白だすきに竹槍(やり)・六尺棒をもって、軍勢の宿陣を固めた。また、明治三年(一八七〇)の松代騒動では、騒動に参加した村々のものが入牢させられ、同四年牢がいっぱいになったので、松代城の二の丸の蔵へ収容したが、えた身分は入牢者の見張りに当たった。このように維新になっても藩は、えた身分を武士の下役として利用していたのである。
明治四年八月二十八日、いわゆる「えた・ひにん等廃止令」が太政官から布告された。すでに一部の武士・庶民から賤民(せんみん)身分の解放が求められ、賤民身分からも解放の要求が強まってきたなかで、欧米からも差別体制を批判された維新政府は、「廃止令」を布告したのであった。解放の意図のなかには、「社会外の社会」を否定して統一国家をめざすこと、自由な労働者として移転・転職を可能にする必要があったことなどもふくまれていたと考えられる。
「廃止令」は、「えた・ひにんの称廃せられ候条、自今身分・職業とも平民同様たるべき事」として、法制上えた・ひにん身分は消滅し、日本人権史上一画期をなすものではあった。しかし、この「廃止令」には府県あての通達が付随しており、それには地租その他租税免除を見直し、大蔵省へ伺うよう但し書きをつけ、解放の代償として地租などを課す準備をしていたのである。こうして、賤民身分は法制的には解放されたけれども、社会的に差別の慣習はきびしく残り、真の解放にはほど遠いものであった。近世においてわずかながらもあった生活保障をいっさい失い、かえって劣悪な生活状況を強いられることになった。
被差別部落の人びとは、いぜんとして差別されたが、「廃止令」をてこに差別の撤廃に立ち上がった。まず「廃止令」で公務がなくなった現長野市域のある被差別部落の人びとは、廃止令はありがたいが、これまでの御用向きの役料がなくなって生活に困っているので対処してほしいと願いでた。「廃止令」が住民の生活まで考えていなかった弱点をついたものであった。明治六年三月、現長野市域のある村の被差別部落の住民は無税地の宅地を払い下げられ、代価も村で代替して持ち地の地券を交付された。これに対し、「今後その厚情を忘れず村の指揮にしたがう」という請書を出している。そのいっぽうで、村は被差別部落の屋敷添え・切添え分には、隣地並みに貢租を課するよう戸長に願いでた。県行政と村行政と被差別部落との複雑な行政・社会関係が、古い要素を残して進行していたことを示している。
「廃止令」によって、曲がりなりにも解放への第一歩を踏みだした被差別部落の住民は、経済的な活動の面でも努力した。たとえば現長野市域の被差別部落で、以前から少しずつ開墾などで土地を広げてきた人びとが、「廃止令」以後、畑地を中心に村内の農民から土地を購入したり、さらに明治十年代末には、村外からも土地を購入するなど、一定の土地所有者に上昇した(旧幕時代頭筋の家)。こういう面も「廃止令」の一つの意義であろう。
明治五年「壬申(じんしん)戸籍」が作成され、被差別部落住民も新戸籍に登録されて、行政に把握(はあく)された。しかし、「壬申戸籍」では町村の最末尾に記され、ときに「元えた」「新平民」などという旧身分を示す記載もあった。
「廃止令」によって権利を主張しためざましい運動が、就学要求である。明治五年に学制が発布され小学校が始まったが、貧困者の児童や被差別部落の児童は多く就学ができなかった。就学を督励していた長野県参事楢崎寛直、権参事小倉勝善は、同七年六月水内郡長野学校に臨校し授業を視察したのち、区戸長・学校世話役に説諭して、農商の児童はもちろん極貧のものおよび被差別部落の児童にいたるまで、不就学のないようにするよう強調した。同九年長野学校の世話役は、県の督励で就学を勧め、貧困者へ授業料・書籍器機費を貸与することなどを回達し、就学に努力している。
明治十八年二月には、埴科郡松代町では被差別部落の児童に巡回教授を勧めた。同二十年四月には上水内郡長沼学校に分教場が設置され、ここでは児童が初等科第六級に及第している。こうして自由民権期には、教育の面でも被差別部落の教育要求が高まり、県や町村もそれについての対応を示す傾向がみられた。同十八年長野町士族関口友愛が、県に被差別部落の児童の私立学校設立伺いを提出するまでになった(不成功)。
帝国憲法発布の直前の明治二十一年五月、更級郡の被差別部落の寺子屋師匠後藤桂太郎は、木梨精一郎県知事に対し、願人惣代として、下水内郡の千曲川の分水土木工事に各郡被差別部落住民二百七十余人を集め参加したいとして、資本金拝借願書を提出した。その願書では、「社会は日進月歩開化いちじるしいのに、私ども『旧雑戸』の者は意気阻喪(そそう)、自暴自棄におちいりがちになっているので自立のために力を貸してほしい」(要旨)と訴えた。自主的解放運動の起こる前の一つの到達点であった。