徴兵令と民衆

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戊辰(ぼしん)戦争は、薩長軍と朝廷派に立つ諸藩兵によって朝廷軍が勝利し、その後の維新の騒擾(そうじょう)も藩兵によって鎮圧(ちんあつ)された。明治三年(一八七〇)の松代騒動は、武装した松代藩兵によって検挙鎮圧され、中野騒動は、翌四年一月政府軍の佐賀藩兵らによって鎮圧された。この時期までの国内の反乱や騒動は、主に藩兵すなわち士族軍によって鎮圧されたのである。

 しかし、政府は明治四年七月廃藩置県を令してから、軍事制度も集権化し統一をはかった。同月兵部省に陸軍部・海軍部を置き、八月全国に東京・大阪・鎮西・東北の四鎮台を置き、上田城に東京鎮台第二分営を設けた。第二分営は信濃全域を管轄し、城郭・城地の接収手続きを進めた。廃城ときまった松代藩へは、翌五年五月に第二分営の乃木希典(まれすけ)が受け取りにきた。「海津城武器引渡目録」によれば、大砲だけでも五十余門、雷管一一四万本になり、そのほか仏式・英式・普(プロシア)式開底銃や長施条・中施条・軽施条手銃など多数にのぼった。信濃一一藩のなかでも、突出した規模の装備であった。


写真44 明治5年正月29日 東京鎮台第二分営乃木少佐の松代藩あて城郭受取り証
(真田宝物館所蔵)

 信濃国では、城郭は松本城を除き取りこわされた。松代城もまもなく本丸・二の丸・三の丸以下が取りこわされた。真田氏の邸宅として取りこわしをまぬがれた花の丸は、翌明治六年十月放火によって焼失した。城地の一部は家禄奉還の士族らに払い下げになり、石塁はこわされ、堀は埋められて、桑園や畑になった。本丸の一部は、明治十九年以来真田氏が買収を進めて遊園地にした。


写真45 建物をすべて破却され石垣のみ残った松代城

 鎮台兵は旧藩の士族を召集したので、まだ旧藩意識が強く、訓練も装備も統一を欠いていた。そこで政府は、明治五年十一月徴兵の詔(みことのり)を、翌六年一月徴兵令を発し国民皆兵をめざした。二〇歳に達した成年男子を徴集し、常備軍・後備軍・国民軍の三種とした。常備軍は三年在営、後備軍は常備軍の服務修了者、国民軍は上記二軍以外の一七歳~四〇歳の男子である。国民皆兵をめざしつつも、一二ヵ条の免役条項があり、身長五尺一寸(一五四・五センチメートル)未満、病気のあるもの、犯罪者、官吏、陸海軍生徒、官立学校卒業生および生徒、戸主および相続者、代人料納入者などが免役とされた。明治九年の免役者は、全国で八二パーセントに達した。これではあまりに多いとして、明治十二年以後改正し、免役条項を制限して大部分を猶予制とした。

 徴兵事務は、長野県では庶務課が担当し、戸長役場に伝達された。郡役所ができてからは、庶務課→郡役所→戸長役場と令達、明治十六年一月徴兵令改正で兵事課ができ、徴兵事務を担当した。全県下で徴兵検査が実施されたが、具体的な徴兵検査の実施状況をみると、明治六年二月二十二日、徴兵使の命令により、徴兵副使陸軍大尉馬場素彦、同権少録小山融機、医官の同軍医副玉村巍、同試補荒川秀俊が長野町に到着した。議長権参事楢崎寛直ほか議官・議員・雇医・史生(記録)らが迎え、大勧進(だいかんじん)に徴兵検査場を設けた。

 翌二十三日から検査に着手し、二十七日に終わった。検丁八四九人、うち合格者一九一人、二十八日合格者について同所でくじで抽選し、当たったものに割符を渡し、三月二日徴兵署を閉署した。くじ逃(のが)れで除外されたもの以外が、常備兵となる。このときの常備兵は、砲兵九人(補充一人、以下同じ)、騎兵五人(五人)、工兵七人(三人)、輜重(しちょう)兵二人(一人)、歩兵一一七人(四一人)であった。歩兵がもっとも多かった。これらのうち砲兵・騎兵・工兵・輜重の四種は六月東京鎮台に入営し、歩兵は高崎営所へ入営、補充兵は同七年一月入営することになった。


写真46 明治7年の臨時召集徴兵簿 (更級健一郎所蔵)

 その後も、徴兵副使が県内の管下を巡視し、徴兵検査を実施した。たとえば、明治十八年度について、同十七年十一月二十日の下水内郡飯山町を皮切りに、下高井郡豊郷村・中野町、上高井郡須坂町、北佐久郡岩村田町・望月町、南佐久郡臼田村、小県郡別所村・上田町、埴科郡屋代町、更級郡稲荷山町・原村、上水内郡住良木(すめらぎ)村・牟礼村、そして同十八年一月七日から十日まで、上水内郡長野町で徴兵検査を実施した。

 表18に明治十八年の北信地方六郡の検査結果と長野市街(再掲)を記し、あわせて同年の長野県全体の状況も掲げた。六郡をみると、徴集人員総数のうち常備はわずかに八・二パーセントにすぎず、補充が四二・七パーセント、不合格も四〇・八パーセントである。後述するが、逃亡は八・四パーセントである。全県の徴集人員の傾向にも、同様のことがうかがえる。


表18 明治18年北信6郡の徴兵状況

 徴兵された兵士は、戸長役場の事務員に付き添われて、東京鎮台入営者は北佐久郡追分宿に、名古屋鎮台入営者は西筑摩郡馬籠宿にそれぞれ集合した(明治十年五月県権令楢崎寛直の布令)。東京鎮台の場合、五月二十四日追分宿に集合して、二十八日にはまちがいなく東京へ到着する日づもりで住地を出発せよといっており、徴兵入費概則に照らし一日一〇里(四〇キロメートル)行くとして四〇銭を渡すことにした。鉄道開設以前は、徒歩で入営した。

 すでに述べたように、常備兵の割合が低く免役の割合が高かった。明治二十二年全国陸海軍現役兵は五・二パーセントにすぎず、長野県は四・六パーセントであった。そして、徴兵についての民衆の抵抗意識、忌避がみられた。同十六年七月二十四日から八月七日までの、巡察使元老院議官渡辺清の長野県巡察報告書によれば、「法律規則実施ノ状況」のうち徴兵令については「人民兵役ヲ忌避スル者頗(すこ)ブル多シ、第一軍管々下即チ東京鎮台ノ所轄ニシテ従来長野県下ノ人民ハ、殊ニ狡黠(こうかつ)ニシテ大ニ厭忌(えんき)スルノ風アリ」ときびしい評をつけて、本年兵役を忌避して告発されたものすこぶる多い、とつけ加えていた。名古屋鎮台管下の筑摩県下の人民は「其性稍(や)ヤ温厚ニシテ、忌避ヲ謀(はか)ルモノ少ナシト云(い)フ」という評であった。

 明治二十二年の全国における逃亡不参は、壮丁総数の九・九パーセントであり、長野県は八・二パーセントである。これを徴集人員からみると逃亡の占める割合は、表18のように同十八年の北信六郡では八・四パーセントになっている。同年の全県の割合は、逃亡七・三パーセントである。明治十五~十七年は二十数パーセントと高く、同十八年は三分の一に急減したのであるが、それでも一定の高さを示している。このように明治前期は、まだ徴兵の忌避がおこなわれていたことを重視しなければならない。