西南戦争

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明治政府の近代化政策の一つとして秩禄(ちつろく)処分・徴兵制・脱刀(だっとう)令などがおこなわれたために、士族が没落にさらされ、かれらの反政府気運が高まった。明治七年(一八七四)佐賀の乱、同九年には神風連(しんぷうれん)の乱・秋月(あきづき)の乱・萩の乱などがあいついで起こった。また、地租改正に不満をもつ農民が同九年、各地で大一揆を起こし、国会開設を求める自由民権運動も起こってきた。

 政府部内の対立を押さえて、大久保利通(としみち)独裁の色を強めた中央政府は、地価引き下げで農民と妥協しつつ、士族の反乱を撃破し、西郷隆盛(たかもり)を擁(よう)して反政府運動の頂点にあった鹿児島士族-私学校派を圧迫した。明治十年二月私学校派=西郷軍が立ち上がって進撃を始めると、徴兵制によって集め訓練された政府の征討軍が九州を攻め、西南戦争が開始された。約七ヵ月余の激戦のすえ、九月二十四日に西郷軍が敗れた。士族軍が農民を中心に徴兵した軍に敗れて武力による内乱は終わり、政府の権力の基礎が確立した。

 西南戦争で動員された政府軍は、陸軍約五万八千五百人(うち警察官六七〇〇人)、海軍約二千二百人の計約六万七百人、西郷軍は約三万人、戦死者は政府軍約六千八百人、西郷軍約五千人であった。いまのところ長野県および現長野市域の常備兵の参戦者の実数はよくわからないが、戦死者については、明治十一年の明治天皇長野県巡幸のとき長野県が提出した「長野県西南出征戦死人等取調」(県庁文書)がある。


写真47 西南戦争が起こったさいの長野県あての電報 (県立長野図書館所蔵)


写真48 西南戦争での戦死者通知
(更級健一郎所蔵)

 これによると長野県の各郡下から徴兵されたもののうち、戦死者・戦病死者・行方不明者は計一四三人(うち行方不明者四人)、警察官戦死者、戦病死者は計二四人であった。現長野市域の場合、明治七、八、九年の徴兵者は、第一後備兵・第二後備兵、近衛兵などで、将校・下士官は少なく兵士が圧倒的に多い。現長野市域の軍人・警察官の戦死者・戦病死者等を郡別・旧町村別にみると表19のとおりである。


表19 西南戦争戦死者・戦病死者数 (現長野市域)

 徴兵者・戦死者・戦病死者が目立って多いのは松代町であり、これは士族などの将校・下士官が多いからである。長野の町部(長野町)は該当者が見当たらず、更級・水内・埴科・高井の各郡の村部出身者が多い。これは徴兵が農民に依存していたことを示すものであろう。警察官の戦死者はすべて松代町であった。後述するように士族を召募したからである。

 西南戦争が始まると、長野県権令楢崎寛直は治安維持のために政府に一小隊を長野県に派遣するよう上申したが拒否され、また、警察官にもたせる銃五〇挺の貸し出しを願いでたがこれも拒否された。凶徒が蜂起(ほうき)したときは、県下の人民を募って鎮撫(ちんぶ)するようにということだった。政府は徴兵員を補うために、士族のなかから人望のあるものを警察官として募集し、上京させるように命じた。政府は、不満をもつ士族を集めれば利益があると考えたのである。長野県は、一〇〇人募集を目標に旧城下に召集掛り(松代二人)を置き、その結果、明治十年六月十一日現在、警察官八〇人が召募された。

 西南戦争に徴兵された川中島の滝沢弥蔵は、「上田を経て高崎分営まで歩いて入営した。鹿児島へ出陣したが、五人ずつ組になっていた戦友が四人戦死し、一人だけ残って心細く、鹿児島の城山の激戦のときは、海水に三日間浸って生きのびた。しかし、生家では便りがないので戦死したものと思いこんでいた」、と証言している。

 西南戦争後の反政府運動は言論による自由民権運動へと移り、士族の没落は決定的となり、また経済面ではインフレーションを起こした。