街道の整備

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明治六年(一八七三)八月、政府は全国の道路を三等級に区分し、さらに九年六月、道路等級を廃止し、国道・県道・里道に編成した。県下の国道は北国街道と中山道で、それぞれ五号線、七号線となった。また、現長野市域の県道はつぎのとおりであった。

  一等県道 妻科街道  長野県庁-南長野(国道)

  二等県道 川東街道  屋代町-飯山町

       北国谷街道 若槻徳間-上水内新潟県境

  三等県道 篠井街道  塩崎村-水内村上条

       松代街道  青木島村-松代

       川手街道  松本町-七二会村

       須坂街道  綿内村-須坂町

 現長野市域の国道である北国街道は、二・五間(四・五メートル)から三・五間の道幅であった。明治十年代の街道の改修は原則として地元町村の負担であったこともあり、主な改修は明治二十年代になって盛んにおこなわれたが、十年代の特色は橋梁(きょうりょう)の改修であった。とくに千曲川・犀川の大河を控え、江戸時代の松代藩支配下の舟渡場は七ヵ所を数え、厚く保護されてきたが、明治に入ると従来の諸手当はいっさい廃止され渡賃船によって請け負わせた。ちなみに、明治五年に市村の舟渡し(丹波島の渡し)に許可された賃銭はつぎのとおりであった。

  乗合一人        一一三文   乗山駕籠一挺 二二六文

  乗馬一匹、口付駄荷とも 三三九文   両掛分持一荷 一六七文

  長棒駕籠(かご)一挺   四五二文   大長持一棹  五六五文

  引戸駕籠一挺      三三九文   長持一棹   三三九文

 いっぽう関所の廃止・商業の自由化は、さらに交通量の増加を生みだし、河川の舟渡しは交通の大きな障害となったので、明治政府は明治四年架橋(かきょう)の可能性のあるところの調査を指示した。これに呼応して千曲川渡船の改良計画が民間から起こった。佐久郡御影(みかげ)新田村(小諸市)の小泉五右衛門と北原末吉は同五年四月、長野県に北国街道の矢代船橋(篠ノ井橋)の建設を願いでた。これによると、所要船を二二艘とし、経費総額八九八貫文余りを計上し、多大な建設費を予定し着工した。

 ついで明治五年十一月小泉らは、発起人に佐久郡追分村土屋恕平・屋代村若林治三郎ほか二人、権堂村宮崎倉蔵・市村松橋半左衛門・同金子文治・大豆島村山崎半七を加え、一一人で市村橋(丹波島橋)架設を願いでている。これに対して政府は建設諸費用の償還のため、一六年間橋銭を徴収することの許可を付して認可した。当時の市村舟橋は四つの瀬に舟橋を架けてつくられた。第一の瀬は長さ五〇間で船二〇艘。二番目は二八間で船一〇艘。第三は長さ二二間、船九艘。第四は長さ一八間、船七艘であった。深さ九尺前後の瀬に総数四六艘、総延長一一八間(二一二メートル)に達する舟橋が架けられたのである。この舟橋は増水のおりは一時引き払わねばならず、また、ときにはこれも間に合わず、舟橋を押し流されてしまうこともたびたびで、経営は困難をきわめた。

 なおこのときの橋銭は以下のとおりである。

  一人     七厘五毛   長棒駕籠  二銭

  馬一匹    二銭     長持一棹  二銭五厘

  両掛分持とも 二銭二厘   大長持   三銭

  乗山駕籠   一銭五厘   人力車   一銭五厘

 明治六年には、布野の船橋(村山橋)および寺尾船橋(川中島橋)も架橋許可になったが、川幅が広い地域はいずれも舟橋であった。舟橋は、洪水のつど通行できなくなる点では渡船時と大差はないが、格段の利便性をもって地元にも受け入れられた。


写真49 舟橋
  (明治41年「長野県案内」立ヶ鼻船橋より)