明治初期における現長野市域の社会構成は、『長野県町村誌』によれば農家が八〇パーセント、商家一一パーセント、職工四・二パーセントであり、家産状況は富者二〇パーセント、貧者八〇パーセントであった。家産状況を当時の選挙権所有状況と対比すると、明治十一年(一八七八)の東寺尾村、柴村の選挙権所有者総数は六四人で総戸数の一九・三パーセントで、富者の比率とほぼ一致する。選挙権をもつことができる農民は、およそ、七、八反歩以上所有する中・上農層であった。農民の八割は六反歩以下の貧しい農民であった。この時期は商工業が多い長野町と松代町、およびその周辺の村を除けば、大部分は純然とした農村であった。若槻東条村をみると、「一五三戸すべてが農業を専門とし、農業の合間に工・商の仕事をする者がわずかにいるのみである。農閑期や冬の間は、木を伐り薪を取る、あるいは余った収穫物を市場へ出して稼ぐ者がいる。また荷車をもって往来の荷物を運び、あるいは木材を運んで産業を助ける者がいる。女性は常に農事を助け、その間に養蚕を行ない生糸を繰る。冬は木綿布を織り、老いたものや子供は木綿糸を紡ぐ」(『若槻村誌』)生活であった。明治初年の一般的な現長野市域の農村の姿がうかがえる。
農業生産の中心は稲作であるが、長野町・腰村・鶴賀村などの商業地、犀川・千曲川沿岸の一部地域(川合新田・岩野・寺尾・柴・大室(おおむろ)・牛島・綱島・赤沼など)、山間地域(茂菅(もすげ)・駒沢・伺去(しゃり)・広瀬・入山・七二会(なにあい)・田野口(たのくち)・安庭(やすにわ)など)においては、大麦や小麦の割合が多い。これらの地域の大麦・小麦は、長野県下でもとくに卓越(たくえつ)した地域となっていた。江戸時代後期からしだいに浸透(しんとう)してきた商品作物の生産では、稲作が盛んな平坦(へいたん)部を中心に菜種の生産が目立つ。また、西山地方の麻の生産とその加工品としての麻布・蚊帳(かや)、および現長野市域全町村でみられる綿の生産は、生産量の多い特色的な農産物であった。反対に、生産はわずかではあるが、特色的な産物に千曲川東部の湿地帯を中心に生産されていた蓮根がある。また、千曲川南部地域には杏仁(きょうにん)の生産がみられる。
漁業では千曲川東部の地域(松代・西条)を中心とした鯉(こい)の養殖や、千曲川を遡上(そじょう)してきた鮭(さけ)・鱒(ます)漁(川合・青木島・牛島など)がみられる。
牛馬の飼育に関しては圧倒的に馬が多く、現長野市域全域で二〇九〇頭が数えられるが、牛は一一五頭で、馬の二〇分の一ほどにすぎない(『長野県町村誌』)。飼育頭数でとくに目立つのは、宿駅をひかえている北郷村・西条村・徳間村・稲田村や山間地域である。塩生村・広瀬村・入山村などの山間地域では戸数のおよそ二分の一の頭数が飼育されており、農閑期には賃馬として活用されたし、善光寺平の水田の代かき稼ぎに出かけた。
養蚕は現長野市域全域でみられるが、とくに犀川以南で盛んに営まれ、繭の生産はもちろん蚕種の生産もおこなわれ、関東方面にかなり移出されていた。
養蚕にともなう製糸は、各農家で女性の仕事として細ぼそと営まれているものが中心であるが、明治七年(一八七四)西条村に五〇釜の六工社がつくられた。同九年には松代町に二工社が設立され、蒸気機(はた)と三〇人の女工を使った近代製糸場ができあがった。松代町にはそのほか松代社・精工社・東山社・松栄社など数社が開業したが、基本的には女工が各家庭で座繰(ざぐ)りをし、それを工場に集めて大枠をつくるといったしくみであり、品質や生産量が一定化せず不評を招いて営業が行き詰まるものが続出するありさまであった。
商業は、長野町とその周辺の村々および松代町に集中し、とくに長野町は善光寺参詣者の宿や飲食店、古物商、娼妓(しょうぎ)宿が目立った。善光寺堂庭(どうにわ)と呼ばれた元善(もとよし)町では間口二間の屋台がいくつか並んで、小間物や絵図・髪飾りなどを商いしたり、煮売り屋が五、六軒ある程度であった。これらの店は、当時は夜には営業が許可されず、店をたたまなければならない状況で、明治初期はまださびしい姿であった。しかし、県庁をはじめとする公共機関が立ち並ぶようになる明治十年前後には、格段の盛況をみせるのである。
運輸業では、中牛馬会社や内国通運会社の設立をみるとともに、人力車の導入がさかんにおこなわれた。人力車が長野へ導入されたのは明治四年で、県庁へ四台入ったのが初めである。当初もてあまし気味だった人力車であったが、一〇年ほどで三〇〇台を超える車が走り回るにいたった。