水内郡伺去(しゃり)真光寺村(長野市浅川)で石油や天然ガスが出ることは、江戸時代中ごろにはすでに知られており、『信濃奇勝録(きしょうろく)』に「この村に土中より油湧き出る」と記録されていて、草生水(くそうず)と呼ばれていた。しかし、石油の本格的な採掘は、江戸時代末の嘉永(かえい)年間(一八四八~五四)に、同村の新井藤左衛門によって始められたものである。藤左衛門は原油の精製に苦心し、佐久間象山や焼酎(しょうちゅう)製造経験者などの助言を得たりして蒸留法で精製した。この精製油はしだいに灯油としての価値が認められて販路が広がり、需要に精製が間に合わないほどになった。
この好況に刺激(しげき)されて、文久(ぶんきゅう)三年(一八六三)ごろに藤丸幸左衛門、明治二年(一八六九)に藤左衛門のあとを継いだ新井藤八、さらに翌三年には小林善蔵・藤丸民五郎・轟市右衛門・上原政右衛門らが、新たに油井(ゆせい)を掘っていずれも成功している。これらの油井の同四年一月から六月までの半年間の産出量は、七一六石(一二八九キロリットル)になっていた。この生産者のなかには、山崎治三郎という名もみえる。
明治三年創設の工部省は、政府の殖産興業の政策をうけて、鉄道・鉱山事業に力をそそぎ、一般人にも鉱山の採掘を認めた。長野県でも、石炭・石油・金・鉄・銅・硫黄・水晶など、各地でさまざまな鉱山の試掘願いが出されている。同七年の県の調書では、石油坑九、銅鉱三、鉄・石炭・硫黄鉱各二、金鉱一で、石油がもっとも多い。
この石油に目をつけた石坂周造が買収交渉を始めたのは、明治四年九月二日のことである。かごに乗り、七、八人の同行者とともに、酒二斗五升・鱒(ます)二匹を土産に、村役人の山崎与市宅を訪れた。周造は桑名川村(飯山市)の生まれで、少年のころ江戸に出て石坂宗哲の養子になり、尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に身を投じて活躍した。維新後は山岡鉄太郎(鉄舟)に身を寄せて、山岡鉄太郎厄介(やっかい)という肩書きを用いて、権力を背景に実業界に入って活動していた。そして、同四年八月には、東京湯島天神下のもと大岡越前守の屋敷跡へ本社を置き、「長野石炭油会社」の看板を掲げた。
たまたまこのころは、石油の生産過剰のために価格が暴落し、伺去真光寺の石油採掘業者たちは、一同が申し合わせて、月番で販売するという販売統制をするほどの苦しい状況にあった。そのため、小布施出身で東京在住の商人芳賀(はが)伊兵衛に油井を売却することを、石坂周造の来る直前の明治四年八月二十七日に決めて、契約を済ませていた。ところが、周造は、政府から信濃・越後・駿河(するが)・遠江(とおとうみ)・伊豆五ヵ国の請け負い稼ぎを許可されていることを背景に、長野県庁をとおして交渉するという手を使って、芳賀伊兵衛を押さえて買収に成功した。こうして「長野石油会社」と称して操業を開始し、長野石堂町刈萱堂(かるかやどう)で精製して実質的に発足することとなった。しかし、ここは狭かったので、同八年に二〇〇メートルほど南の大通り西側に移転した。同十一年の『善光寺繁昌記』の口絵や同年『開明長野町新図』に、その位置が示されている。
石坂周造は、明治五年には試掘をおこなうために県内五〇ヵ村と契約を済ませた。そのうち上水内郡は二四ヵ村、更級郡は二ヵ村である。同年十一月~七年十一月の二年間に試掘願い・借区開坑願いを出したのは三四ヵ所で、そのうち現長野市域の地籍は表22のようである。しかし、実際に石油が湧出したのは、伺去真光寺村(長野市)を主として、上松村(同)・富倉村(飯山市)の三ヵ村のみであった。
明治六年の記録によると、一〇万円の資本を集めて、東京に本社、信越各一ヵ所の支社を設け、器械を三台買い入れ、二〇ヵ所の油井を掘り、一昼夜で六〇〇石の原油を得て三〇〇石の製油を製造し、三年間で一七四万円の収益をあげようという大きな計画であった。しかし、同八年前半で一二四〇石(二二三二キロリットル)と、産油量は増えず不振であった。
さらに、輸入した器械に必要な鉄管が一本もついてこなかったり、雇い入れたアメリカ人技師アムフローム・シー・ダンに油井掘削の経験がなかったりして採掘は進まなかった。そのうえ解雇(かいこ)したダンから契約の三年分給与支払いを訴訟され、明治十一年十一月の大審院判決で敗れて借財を負ったりして、石油事業は挫折(ざせつ)した。