善光寺周辺のいわゆる長野の街は、古くから水に乏しく住民は難渋(なんじゅう)した。とりわけ鐘鋳堰(かないせぎ)より北側では飲料水・灌漑(かんがい)用水ともに乏しく、もっぱら井戸水や細い沢水に頼っていたが、それも毎年乾季にはかれがちであった。このあたりは地下水の水位が低く、また、必要な水量を得る河川がないことがいちばんの原因であった。明治五年(一八七二)長野県庁舎建築のさいも、水の有無が場所の選定に大きくひびいたという記録がある。維新による新しい時代を迎えて、村をこえた広域の水利事業なども以前より容易になったこともあり、この水不足を解消するためまず立ち上がったのが箱清水村であった。箱清水村は明治三年ごろから戸隠山や飯綱山麓(さんろく)から田用水(瑪瑙堰(めのうせぎ)、箱清水堰・箱清水用水などとも呼ばれた)を引くことを企てていたが、実際に調査活動に入るのは同四年からである。
明治四年八月、箱清水村の内田与右衛門・黒岩六之丞・内田権四郎が先達となり、田用水を遠く戸隠から引くために、手弁当で連日早朝から夜遅くまで調査し、実施の見通しをえて県へ嘆願した。その嘆願書の要旨は「この村は往古から田用水に乏しくもっぱら溜(た)め水を用い、土手を築いたりしてきたが、連年干ばつがちで今年もすでに水がかれ難渋している。これまでに飯綱山麓芝原の出水を当村へひく企てもあったがかなえられなかった。今般は県庁のご威光をもって、戸隠山つづき瑪瑙山、怪無山(けなしやま)の流水が多分にあり、下流にいたるまですべて支障がなく、この水を県庁の用水にもし、その余り水を当村田用水にしたいので、許可をいただきたい」というものであった。
この箱清水村の動きをみて、やはり田用水に苦しんでいた鑪(たたら)村(芋井)が用水工事の提携(ていけい)を申しこみ、両村が協力して引水事業に取り組むことになった。このときの規定書によると、工事入費や完成後の分水の割合は箱清水村四、鑪村一とされている、以後の嘆願書や交渉は、すべて両村連名で進められた。
この明治四年当初の動きを克明に記した内田与右衛門の日記は、大意つぎのようである。
八月二十九日暁(あけ)六ッ時(午前四時半ごろ)出立、内田与右衛門・黒岩六之丞・内田権四郎・釼持善右衛門・黒岩利兵衛・常田秀庵・高橋兵右衛門ら七人は、水をひく見分のため、銘々食物持参で飯縄山麓芝原あたりを見分、名所大久保茶屋にて休息、戸隠中社へ参詣、それより万屋前脇通りから東の方へ出ぬけ、瑪瑙山・怪無山の合流源を見分する。それより横道堰筋をおおかた見通し、前刻大久保茶屋にて休息、ふたたび飯綱原中途通行、新池(論電ヶ谷池)上端を通り六部塚下にて暮六ッ(午後六時ごろ)の鐘が聞こえ、銘々五ッ時(午後八時半ごろ)前帰宅する。
九月一日願書きしたため。
二日朝大属様へ内願しこのたび内見に入り、朝飯過ぎ御役所へ権四郎同道にて差し上げる。日暮れまでかかったため昼弁当叶屋へ行く。
三日またまた伺いに両人にて参る。人別増減を取調べ翌日伺うと、水口までの丁数・人足数の見積もりを差し出すよう、それまで願書きは預かりおくよう仰せられる。
六日暁七ッ時(午前三時半ごろ)前出立、黒岩利兵衛・常田秀庵・自分の三人にて京田村境口にて夜明けになる。戸隠中社へ参詣し同所で朝飯、瑪瑙山・けなし山合流の水元を見届け、方角・丁数を改める。
十三日暁七ッ時(午前三時半ごろ)出立、常田秀庵・自分・権四郎にて大久保茶屋より入り丁数を改める。雨天であるが取急ぎのこと故、六之丞・利兵衛も昼四ッ(午前一〇時ごろ)ころ到着、それより仁王坂まで取調べ、水落口滝下より京田村(組)地内横堰、日暮に足踏みいたし漸々たどりたどり帰り、荒安村三沢右衛門にて休息。
十四日残り分、秀庵・兵右衛門両人にて改め、これも夜五ッ時(午後九時ごろ)帰る。
十七日雨天のため絵図面ならびに人足積りを書き上げ、当日斎藤様・松野様へ権四郎両人で差し上げる。絵図面・人足積りとも熟覧され自分どもへ糺(ただ)したうえ、お預かりになられた。夕飯後村方の兵右衛門・秀庵・三左衛門・六之丞・利兵衛・権四郎・善右衛門・善三郎・自分の九人でこれまでの次第など演説しお祝いの宴をする。
こうして願い書はいちおう県に預けられたので、明治四年九月下旬からは堰筋にあたる上ヶ屋村・京田村(組)・泉平村・鑪村・荒安村・桜村・入山村・茂菅村などと土地の貸借交渉に入ったが、京田村が「この堰を掘れば人家へ抜け崩れ等あり迷惑である」と反対するなど容易には進まなかった。しかし、十二月に入り関係村々は箱清水村と堰筋の土地貸借証書の取り交わしを済ませた。それによれば「堰敷の年貢として明治五年より一ヵ年につき籾子三俵ずつ差し出す」というものであった。
明治五年正月十一日からたびたび新堰筋掘り立てにつき、県庁(斎藤・松野)営繕方詰所(倉持)などへほとんど連日出向いたが、なかなか許可は下りなかった。二月十五日県はようやく「水源検査を明日より実施」のむねを伝えた。
箱清水村では鑪村へも急飛脚で知らせ、他の関係村々へも知らせた。翌十六日当日は県の技師池田清二郎・市川の二人が出張調査、各村役人も総出で案内や立ち会いをし、当夜は旅館極意に宿泊、十七日まで二日間かけておこなわれた。水源調査が済んだところで六月十九日、「この用水は県庁用水にもなるものであるから」と堰掘り立ての許可を県に求めている。さらに、七月五日両村はあらためて用水掘り立て願いを県へ提出した。八月中旬、ようやく県は「県庁用水にすることは除外」して掘り立てを許可した。八月二十日には掘り立て工事に先だち「厚き御情の上御許容下され、ついては徒刑人四十人ほど拝借したい」と人足補充に徒刑人の使用を願いだし、つづいて「掘り立ては明二十五日が日柄もよく、鍬下げをしたい」と届けを出し、いよいよ掘り立て事業を開始した。請負人は久保寺村の小林彦右衛門ほか北島吉蔵・小山与右衛門・柳沢助三郎であった。
明治六年三月、待望の堰掘り立ては完成した。水路はおよそ図6のようである。この完成にあわせ湯福神社境内に「水神」(写真54)の記念碑が経費五円一〇銭で建てられた。また、同時に水源地には、「明治五壬申年八月二十五日 箱清水・鑪両村中」と刻み、人名は写真54上の表の九人のほか、釼持善右衛門・常田秀庵・黒岩利兵衛・金井三左衛門・竹内孫右衛門・小林源兵衛・麻場常三・麻場竹蔵の八人が刻まれている。
この堰の完成につき同六年七月五日創刊の『長野新報』第一号は、「水内郡箱清水村は従来灌水の乏しさに苦しんでいたが、本年戸隠山から一道の新渠をうがち水をひいてくることおよそ三里(一二キロメートル)あまり、本村はもちろん数十ヵ村がその沢をこうむる」と報じている。
ところが堰工事が粗悪なため途中の水漏れや抜け崩れがあり、通水は思うようにはいかなかった。そのうえ関係村々からの苦情が出て、明治七年三月には荒安村に対し、「今後堰筋の橋や堰抜崩れ等の場合は、沙汰(さた)しだい駆け付け立ち会いのうえ差しつかえないようにしていく」という規定書を出している。それでもこの堰の先行きの成功に期待して、同年四月には近隣の東之門町が箱清水村に対して、「御村ずいぶん用水潤沢のよう見受け、用水融通頼み入りたく金百円にて用水の二分を分水してくれるよう」と申し入れている。同様に同八年一月には伊勢町・岩石町とも規定書を取り交わしており、箱清水堰近隣の町々では用水の融通を受ける希望のあったことがうかがえる。このあと明治九年、箱清水村は長野町と合併する。
明治十一年秋天皇行幸にさいし、宮内庁の命により県が八月二十三日瑪瑙堰の検査を、鑪・箱清水両村の村役人立ち会いでおこなった。その記録によれば、「水源から揚口までは十分に流水があるが、飯綱山麓横堰で水が漏れてやがて絶水になる。その下流京田あたりで出水があるが、これも途中で絶水して通水はまったくなくなる。そこで、官林大峰山および北谷合いの出水を県庁へ分水する」と報告している。そして、さらに明治十五年三月には、豪雨のため大洪水があり、ところどころの谷は崩壊し、ついには堰路線が大破壊してしまった。この被害は両村民に大きな重荷となった。
明治十一年七月、瑪瑙堰地区関係の町会議員高橋幸造・高橋兵右衛門らは、今後この堰の修理は長野町全町の負担にするよう長野町臨時町会に建議書を出した。「明治五年中から莫大の経費をかけて堰をひらき田用水にしようとしたが、じつに遠隔の堰路のため、いまだ全きを得ず、人民艱難(かんなん)に立ちいたっているので、長野町全町の資力をもって堰路を完全にし、全町の消防に備えるよう希望する」というものであった。
瑪瑙堰は、堰筋の掘り立ては完成したが、毎年堰の補修に大勢の人足を使い、膨大な経費をかけても思うように通水せず、もはや箱清水・鑪村の負担には耐えられない状況となった。明治五年から同十六年までの箱清水支払い総経費は三四七五円余、そのうち毎年支払った人足賃が大部分で二七七五円余(約八十パーセント)である。
明治十六年二月の長野町議会では、「箱清水用水を修理して長野町の飲料水にする」として建議されたが、この建議は不完全な方法であるとして取り下げとなり、そのかわり堤塘(ていとう)修理費として町費から金五〇円の補助金を支出することが決議された。
しかし、時あたかも松方デフレの影響もあり、これ以上年々多額の費用を投ずることは困難となり、明治十六年ついに旧箱清水・鑪両村の資力ではもちこたえられなくなった。