明治維新以後善光寺は、松代藩の支配を受け、ついで中野県の支配下に入るにおよんで、善光寺寺領は三(山)門から上のみと規定されたので、堂庭(どうにわ)の支配は善光寺の手を離れた。しかし、明治五年(一八七二)五月には山門と仁王門のあいだの堂庭と土手敷が善光寺に払い下げられた。
明治六年に善光寺は堂庭に小屋掛けを許可したので、堂庭商人は仮店舗(かりてんぽ)をやめ、競(きそ)って本建築の店と住居を建て、同七年十月に町名を元善(もとよし)町と定めた。しかし、その後もこの場所は一般には堂庭と呼ばれ、長野町随一の繁華街となって栄えた。
善光寺をふくむこの一帯は、善光寺町ではなく正式には長野村であった。前にもふれたが、県庁が中野からこの地に移ったので、長野県は内務省の許可を得て、明治七年十月から長野村を「長野町」という呼称に変更した。これにともない、桜小路は桜枝町、阿弥陀院町は栄町、天神宮町は長門町と改称した。箱清水村もこのとき長野町に編入され、長野町箱清水となった。腰村は同十四年西長野町、妻科村は同十四年に南長野町と改称している。
善光寺宿には、馬を継ぎ立てる問屋のほかに、中馬(ちゅうま)という運送業者が江戸時代に誕生していた。政府は慶応四年六月に、古代以来の伝統を引く宿駅制を廃止する方向を打ちだした。かわりに官設の伝馬所(てんましょ)を設置し、公用の貨物の流通をはかることになった。伝馬所は運営費が人民の負担で、政府御用の荷物は、無料で運搬させるしくみであった。伝馬所は明治三年一月からは民営化され、希望者の請け負いで運営された。
政府は明治四年に伝馬所を廃止し、各駅(旧宿場)ごとに旧問屋層を中核に、陸運会社を設置させた。しかし、中馬業者はこの組織に参加しないで、相変わらず独自に運輸業を継続した。長野地方の中馬業者は中沢与左衛門を頭取に、同五年八月に信濃中牛馬(ちゅうぎゅうば)会社という会社を設立した。
北国街道が善光寺前で直角に右折する場所に高札(こうさつ)場があった。高札場の下手には七色唐辛子(とうがらし)の八幡屋があり、その下手に本陣(ほんじん)の「ふじや」があり、その斜め前には脇(わき)本陣の「あおぎや(五明館)」があった。信濃中牛馬会社の赤レンガ造りの本社家屋(最近まで善光寺郵便局として使用されていた)は、本陣ふじやの下手にあった。
江戸時代の善光寺周辺では、月に一二回市(一二斎市)が開かれていたが、善光寺木綿(もめん)の取り扱いが多くなるにしたがって、市の場所はしだいに東・西後町から中御所と新田に広がっていった。長野町周辺は善光寺領・松代藩領・椎谷(しいや)藩領に分かれていたが、善光寺を中心として市街地化が進んでいた町々は、長野県という新しい行政組織のもとで、しだいに一つの都市を形成していった。
明治四年の祇園(ぎおん)祭(御祭礼)には、山車(だし)の出発順番をめぐって争いが起こったが、新田・中御所などの町もこの祭礼の仲間であり、権堂町の大獅子もこの年の御祭礼を記念して製作された。廃藩置県と長野県成立は、長野村を政治都市にしただけではなく、善光寺周辺の村や町をいっきょに同一都市地域として結合し、新しい「長野」という町が出発した。
大正十四年(一九二五)刊行の『長野市史』には、県庁移転前の善光寺周辺は、「北は如来堂(金堂)の裏は箱清水まで一軒の家もなく、善光寺の東は城山だが曲がりくねった細道が在るだけ、南は元善町だが石畳の両側に茶店と奥行き一、二間の店が並び、その後ろの衆徒の寺院(院)迄の間は一面の草原であった」と記されている。
のちに裁判所がつくられた花咲町は、このころは畑のみで一軒の家もなく、狐池は一九戸の農家が山際に散在し、桜枝町の北裏や西長野の北裏にも一軒の家屋もなかったという。県庁の仮庁舎となった西方寺裏には、わずかに二、三の人家があったが、旭町はまだ町にはなっておらず、妻科方面に向かって細道があったのみであった。善光寺町、長野町といっても明治の当初は非常に小さな町で、善光寺から城山に通じる道は、明治十一年の明治天皇ご巡幸のおりに、直線道路が開削され、善光寺境内の公園や城山一帯の整備もおこなわれた。
石堂町はほとんど村落のままで市街地化しておらず、中御所とのあいだには細い野道があるのみで、人家はつづいていなかった。商人の多い大門町でも各戸は多少の畑をもち、自家の野菜は自家製でまかなっていた。それでも、旧善光寺領の家屋は瓦葺(かわらぶ)きであったが、松代藩領や椎谷藩領の家屋はほとんどが草葺(くさぶ)き屋根であったという。