県庁移転と長野町の形成

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明治四年(一八七一)五月、中野県権令立木兼善は民部省に対し、県庁移転の伺い書を提出した。移庁請願の理由として、中野町(現中野市)が北国街道から五里(二〇キロメートル)も離れていて行政に不便であること、中野暴動で県庁が焼失して庁舎がないこと、善光寺町は北国街道上の北信随一の繁華街であることをあげている。再建のめどが立たない中野町ではなく、善光寺町に県庁を造営し、長野県と改称したいと申しでたのである。

 この申請は政府のいれるところとなり、明治四年六月中野県は長野県と改称され、七月五日村々に布達された。そして県庁は長野村の西方寺を仮庁舎にして移転した。廃藩置県は同年七月十四日におこなわれ、旧藩県(松代・須坂・上田・小諸・飯山・岩村田・椎谷(しいや)の一部)は解体することになった。同年十一月二十日に府県の統合がおこなわれ、中南信は飛騨とあわせて筑摩県、東北信は長野県(旧長野県)となった。県令職には中野県から引きつづいて立木兼善が権令として就任した。

 「明治四年十二月旧長野県職員一覧」によれば、総職員数は五一人であり、東京出張所詰めの四人を除くと、長野県庁には四七人が詰めていた勘定である。翌五年には庶務課・租税課・聴訟課・出納課の四課制となり、本庁勤務は五七人に増加した。県庁移転は直接的な人口増加をもたらさなかったが、波及効果は大きかった。多くの官庁(裁判所・監獄等)が長野町に設置され、その官庁の官員の赴任ばかりでなく、家族や一族が多数移住してきた。高級県官は江戸時代の武士のように家来を連れてきており、県官の一族やこれらの使用人たちのうちで、長野県学校に入学したものは、名簿のなかに身分肩書きが県官の家来として記されている。


写真55 明治7年の長野県職員録 左端の横田数馬は横田秀雄や和田英(旧姓横田)の父 (中沢惣二所蔵)

 県庁が明治七年に長野町袖(そで)長野(現信州大学教育学部構内)に建設されると、若松町(西町新道)が開かれ、長門(ながと)町裏や岩石(がんぜき)町裏に、長屋ではなく官吏(かんり)が住むのにふさわしい住宅風の建物が多くつくられた。同八年には現長野市立図書館のところに師範学校が建築され、同十一年八月には立町に裁判所(松本裁判所長野支庁)の建物が新築された。同十二年には中御所から県庁に通じる直線道路が開削された。これが県町(あがたまち)通りである。

 権堂の遊郭(ゆうかく)は、明治五年の人身売買禁止のため、町芸者のみが許可されていたが、明治十一年一月にいたって貸し座敷が許可され、鶴賀新地に通称一万坪という遊郭が建設された。この結果、権堂から鶴賀新地の遊郭までの道路が開かれ、その道の両側に家屋が建ちはじめた。

 明治四年五月二十二日発布の区制により、長野村・箱清水村・腰村・茂菅村・妻科村・権堂村・問御所村・芹田村・古牧村・安茂里村・三輪村・吉田村は同一の戸籍区となり、行政上での一区域となった。県は同七年七月十六日「区画改正条例」を発布し、従来の七二戸籍区を廃止し、新たに二八大区一九〇小区を設置した。これにより、権堂村・問御所村・七瀬村は第二二大区第三小区、茂菅村・腰村・妻科村は第二三大区第二小区、長野町・箱清水は同第三小区となった。

 明治五年二月までは、廃藩置県後の移行措置で長野県管轄(かんかつ)、松代藩管轄と政治上では分かれていたこれら地域であったが、政府の行政単位の変更などはあったものの、善光寺を中心に経済・祭礼(さいれい)その他で深く結びついていた地域であったから、しだいに一つの経済圏、一つの生活圏としてつながりを強めていった。

 「明治十二年出版長野町図」という絵図を見ると、鶴賀新地は街から離れた郊外にあり、石堂町には石油会社が北国街道沿いにあった。鐘鋳(かない)川用水より北は、かなり市街地化が進み家並みも瓦葺(かわらぶ)きが多かったが、後町より南方は街道の裏手はすべて水田であった。

 善光寺周辺の町や村の行政を預かった戸長や副戸長はつぎの人びとであった。

明治五年四月 長野・箱清水 戸長矢島吾左衛門、副戸長露木彦右衛門

  七年七月 副区長 藤沢長次郎 戸長露木彦右衛門

  五年四月 副戸長 妻科徳武喜三郎 腰西沢平左衛門 荒井利右衛門 茂菅柄沢文三郎

  七年七月 戸長北村甚蔵、荒井利右衛門

  五年四月 権堂・問御所・七瀬、副戸長久保田新兵衛 北沢源八

  七年七月 副区長宮沢助太郎 戸長久保田新兵衛 副戸長北沢源八


写真56 水内郡53区・54区の戸長、副戸長
(露木彦右衛門所蔵)

 長野県庁の庁舎は、明治四年七月に西方寺を仮庁舎として出発したが、同七年二月に長野町字御殿の一部と腰村字袖長野(菩提院廃寺跡)にまたがって建築が始められた。各町に足場の用材の提供が要請され、桜小路・大門町・西町東町・横沢町・権堂・西後町が各三〇本、伊勢町・東之門町・問御所が各二〇本、立町・後町・岩石が各一〇本の総計三〇〇本を供出した。工事は順調に進み、七年十月に日本家屋風の県庁舎が落成した。


写真57 長野県庁 (『長野県案内』より)

 明治九年以前は司法事務そのものも県庁内でおこなわれていたが、同九年にいたり行政と分離し十二月一日に大勧進(だいかんじん)内に長野区裁判所を設けた。翌十年十一月からは松本裁判所の管轄下に入り松本裁判所長野支庁と改称した。しかし、明治十一年天皇のご巡幸をひかえ、急きょ新築することになり立町に新築した。

 郵便局は明治五年十月に大門町の新小路に開局された。初代の局長は臼井清五郎、ついで中沢柳生、つぎの林数右衛門が局長のときに新町に移された。その後、再び大門町に移転した。文明の利器電信(電報)は、明治十一年八月に東京方面から長野町に開通した。電信局は大本願(だいほんがん)の南角(かど)の石垣の上に設けられたが、のちに郵便局と合併した。