明治初期の現長野市域における各町村の人口動態は、統計の不十分さから、正確に把握(はあく)することは困難であるが、そのおおよそをみると表23のようである。それによると明治初期(明治七~十二年)の現長野市域全体の人口は十一万四千余人であった。地域的には、善光寺門前町として発達した長野町(箱清水を含む)が八千余人。松代藩の中心地であった松代町が八千四百余人で、その数において突出しており、現長野市域の二大中心地を形成していたことがわかる。それについで、塩崎・綿内・保科、御幣川(おんべがわ)・会(あい)・横田などの地域が人口の集中した地域となっており、ほぼ現長野市域の人口密集地域の原形をなしていたことがわかる。
新制度下での平民と士族数をみると、松代町がその半数を士族で占めており、際立っているのは当然であるが、千曲川以南の松代町に隣接している村々にも士族が多く在住している。なお、資料上判明する町村の人口の推移は表24のようである。数字は、統計処理の仕方が違うので厳密には対比できないが、およその傾向はうかがえる。それによると、幕末から明治にかけての一〇年間ほどで一割前後の伸びを示している。
廃藩当時(明治四年)松代藩は士族八七九人、卒族(足軽)一八九五人、士族に準ずるもの二四四人、卒族に準ずるもの二五〇人、計二七七四人であった。明治政府は同五年卒族の称を廃してその多くを士族に、一部を平民に編入したが、松代藩の卒族がどのように編入されたかは定かでない。しかし、松代藩の士族八七九人および城下在住足軽二二八人、計一一〇七人とその家族を含めて四千五百人余りが松代城下の士族と推定すると、明治十年ぐらいまでは士族の外部への流出は徐々に進行しつつあったと推定できる。なお明治十年前後の松代町の他出寄留数はおよそ五百人で、人口減少の様相は早くも始まっていたのである。
箱清水町をふくむ長野町は明和(めいわ)元年(一七六四)の史料の六三五七人と明治初期の八〇七三人を対比すると約一・三倍の増加であり、明和元年の善光寺領人口が六八二四人、元治(げんじ)元年(一八六四)の善光寺領人口が六三五一人(二歳以上)であることを考慮に入れると、幕末から明治十年ぐらいにかけて急激な増加を示したことがわかる。ちなみに箱清水をふくむ長野町の明治十年前後の外部からの入寄留数はおよそ二百人で人口流入が多いことを示している。