開化と民衆の生活

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明治初年における現長野市域の衣生活は、他地域と同様に木綿類主体で絹織物はきわめて少なかった。当時、長野村の「旦那様」と呼ばれている人でも絹物を着ているものは少数で、冠婚葬祭を除いては木綿類だけの生活であった。そのことは当時の呉服屋に絹物がないことでもわかる(『信毎』)。

 長野の明治初期の店は藁葺(わらぶき)で、呉服太物、仏具、荒物、砂糖、紙、油というような商品が雑然と並べてあり、そのなかでもっとも売れた商品は唐弓(とゆみ)であった。唐弓は綿をはじき打って不純物を取り去り、柔らかくする道具であり、当時は自家用の綿を機織(はたお)りして使用することが一般的であった。

 若槻地区における手製の自家用衣料・履物製造の実態は表25のようであった。なお明治前期の衣生活の実態は表26のようであったが、都市、農村、山間地ではいくぶんの地域差が存在したと思われる。一般的には木綿を中心にしたかなり質素な衣生活ではあったが、この時期にはいり長野村(町)などでは洋服が見られた。それは官員、巡査、教員などの制服が主であった。明治二十年代には山高帽子・着物に靴というような姿も見られたという。


表25 明治14年ごろの村別衣料・履物製造


表26 明治前期の衣生活

 明治初年の開化のようすを『長野市史』ではつぎのように記している。

明治四、五年の頃に至り、東町に東雲(シノノメ)というランプ屋が(今の大門町滝沢商店の前身)出来、ランプ・石油を売り初む、町民始めて種油使用の行灯(アンドン)に勝りし一道の光明を認む。又大門町に宮内、(権堂佃屋)広小路に丸半、(佐藤)本善町に槌与(つちよ)、(原)海老嘉(えびか)(牧野)とて、西洋小間物を売る店前後して開店し、モヘル・羅紗(らしゃ)のトンビ、出来合の靴、メリヤスのシヤツ、股引、鉛筆・マツチ(始は蝋マツチにて唐附木(つけぎ)といふ)毛糸の襟巻・ラツコの帽子(此頃は廉価(れんか)なりき或はまがひ物ならん)蝙蝠傘(こうもりがさ)の新様にして便利なるものを売り出したれば町民追々にハイカラとなれり。

 食生活も多様で地域差があり、農村と山村、都市では若干の違いはあったが、一般には表27のような生活であった。農村では商品として重要な米をたいせつに考え、その節約のために混食をしたり、代用食をとりいれた。一般には一汁一菜で、正月や祭礼、もの日やハレの日に魚などを食べていた。


表27 明治前期の食生活

 住居は、大門町などの一部を除いて、善光寺参道にあたる北国街道筋でも藁葺(わらぶき)がかなりあり、木端板葺(こばいたぶき)の家屋が大部分であった。平家が大部分で二階屋は少なく、あっても低く不格好なものだったといわれている。元善町は九尺二間の屋台店が並んでいるだけで、本建築の商家は皆無であった。松代町では、武家屋敷は茅(かや)葺で、中級士族以上は書院造りで住居はととのっていた。商人・職人・士族などそれぞれの階級に応じた屋敷造りであった。現存する横田邸は中級士族の典型的な住宅であった。

 農村部では、幕末に農民の階層分化が進行するなかで、住居形態も多様で格差は大きかった。それが明治期にそのままもちこされて富農層は門がまえで書院造りの座敷をもつ大邸宅に住み、貧農は掘っ立て小屋同然の貧しい家屋に居住するのがつねであった。

 全壊家屋三万四〇〇〇戸といわれた弘化四年(一八四七)の地震で、現長野市域はその中心圏内に入り、その後建築された家屋がそのまま明治期にいたっていた。明治初年と推定される典型的農家の間取りの例として下条親男宅がある(図7)。


図7 農家の間取り図(下条親男宅) (『七二会村史』より)


 明治の新しい時代を示す建物として、長野師範学校教師館がある。明治八年、長野町長門町に完成。木造二階建てでその後県立長野中学校の一部となった。県内の洋館としては中込学校と並んで最古である。洋風の基本要素として、中央に入り口を設けて左右対象とする。窓は縦長の上げ下げ窓、ガラス入り、窓回りや玄関の木部はペンキ塗り。基礎は布基礎である。しかし、基本は洋風であるが細部には和風が混入し、車寄せの屋根は和風であり、柱の礎石の形は寺院に近い。そのほか同十一年に大本願邸内東南にできた電信分局の宿舎も洋風建築といわれていた。


写真58 旧長野師範学校教師館
(県宝・飯綱高原に移築)

 当時つくられた公共的建物のすべてが洋風を取り入れたわけではなく、明治七年十月完成した長野県庁舎は二階建てで鼓楼(ころう)があり、ガラス障子を使ったが、構造は和風であった。同十九年四月建築の長野始審裁判所も和風である。

 明治十三年に完成した城山の長野学校の校舎は、その二年前明治天皇の行幸にあわせて設計されたもので洋風二階建てで、正面玄関にはベランダが取りつけられ、飾りつきの柱などがあって近代的な建物であった。

 ランプの普及の状況については、「電気があるではなし、ランプもまだたくさんは用いられなかったから、家の中さえ行灯(あんどん)が多く、暗いこと夥(おびただ)しい。いわんや大門の大通りにも、外灯などのあろうはずなく、町はシーンとして、せいぜい旅籠屋(はたごや)の名入り灯籠がカンテラの火でちらちらするくらい」という状況であった。ランプの普及のきっかけの一つは、明治四年静岡県士族・石坂周造による長野石油会社の設立であった。同会社は、伺去(しゃり)真光寺で発掘された原油を今の北石堂町刈萱堂付近で精製、販売するためにつくられた。その結果、「この地方でのランプの普及は他の地方よりも早めに進んだ」という。