筑摩県の松本町では、明治五年(一八七二)に『信飛(しんぴ)新聞』が発行されたが、長野県では県令立木兼善のすすめにより、『長野新報』が明治六年七月五日に発刊された。本社(本局)は大門町六五番地の需新(じゅしん)社で、発行所は同じく大門町六五番地の向栄堂であった。経営者は江戸期以来の老舗(しにせ)の書店蔦屋(つたや)の岩下伴五郎であったが、新聞社は「需新社」、発行所は向栄社という名称を使い分け、家業の書店は相変わらず蔦屋を名のり、さらに長野県の活版所として御用印刷物出版を一手に収めていた。編集主任は県官村松秀茂、発行人は岩下伴五郎であった。長野の売弘所(うりひろめじょ)(販売店)は、堂庭の西沢喜太郎と松木喜右衛門であった。
『長野新報』の「拡言」という発刊の辞は、「西洋の文物を紹介し新知識を広め、頑固の風習をつみとり、文明開化の風を送りこむことが本新聞の目的である」と述べている。長野で発刊された新聞であるが、長野県の布達類をかかげる官報的な性格があったので、いわゆる県の御用新聞の役割をもっていた。東京・安中・高崎にも販売所があり、筑摩県の松本、長野県(旧長野県)の岩村田・小諸・飯山・中野・松代にも売りさばき所があった。長野県の全域がこの新聞の主たる営業領域であった。
この県御用新聞『長野新報』は、第二号まで発行したあと、翌明治七年一月二十七日に『官許長野毎週新聞』と改題し、毎日曜日に発刊する週刊新聞に衣替えし、一部一銭で売りだされた。最初は、内山紙一枚の紙の表面にのみ刷られていて、活字で刷った「かわらばん」といったおもむきであった。同八年二月四一号からは内山紙両面刷りとなり、さらに五三号からは小形冊子六枚つづりとなり、その後も読者の要望を入れて枚数や形を変えていく。
明治八年九月からは紙代は一銭五厘、年間購読料は七五銭となった。この年の末ごろから今までの文章「なり」「けり」調から「あります」の口語調となり、論説欄をつくり、県下の文化人をもって執筆者グループをつくった。同九年五月十日第一〇三号からは『長野新聞』と三度目の改称をし、隔日刊となり一部一銭に値下げされた。
明治十一年からは新聞広告を掲載するようになり、一行が三銭で五回以上掲載すると二銭五厘に割り引きし、一〇回以上掲載すれば二銭に勉強するという広告が出されている。同十二年七月から『長野日日新聞』と四度目の改題をし、このときから日刊紙になった。そして翌十三年九月には『信濃日報』と五度目の改題をし、社名を「信濃日報社」と変更した。さらに、翌十四年四月十五日に『信濃毎日新聞』と改題し、号数は長野新報第一号からを継承して第九二五号とした。ここに、以後今日までつづく題号が確定したのである。