「一般の人民必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」という維新政府の方針のもとに、明治五年(一八七二)八月「学制」が発布された。これにより、私塾・寺子屋・郷学校など従来の学校はすべて廃止され、日本の近代化をめざした全国統一の教育制度のもとで、あらためて小学校の創設がおこなわれた。
旧長野県が、「学制」にしたがって教育行政の単位として四中学区を設定したのは、翌明治六年五月であった。これによると現長野市域は、長野村を中学区の本部所在地とする第一中学区に水内郡南部一〇区と更級郡が、飯山町を本部所在地とする第二中学区に現若穂地区が、上田町を本部所在地とする第三中学区に現松代地区がそれぞれ所属した。
六月になると旧長野県は小学区を画定(かくてい)し、各区長をとおして各町村へ伝達された。一般行政区(戸籍区)の第五四区の小学区の設定は、六月五日付け区長回章(かいしょう)で公示され、表30のようであった。行政区の村々を連合して小学区に区分しており、一小学区の人口は、長野学校区以外は二、三千人前後あり、地域的まとまりを重視した関係で文部省の示す基準(六〇〇人)どおりの学区設定とはなっていない。
学区の設定とあわせて、中学区の教育行政機関として学区取締(とりしまり)が設置され、表31のように民間から任命された。選出においては、学区からの推薦により、県庁へ内申され、文部省への上申をへて県から任命された。選考の結果で、人員が「学制」の規定の「十名乃至(ないし)十二、三名、一名ニ小学区二十或ハ三十ヲ分チ持タシム」より少ない人数となった。選任された人物は、規定どおりその地域の名望家(めいぼうか)が選ばれた。士族と平民、職業、地域間のバランスなども考慮されている。こうして、任命された学区取締は、会議でそれぞれ受け持ち学区を決めて、就学奨励(しゅうがくしょうれい)・学校設立・学校の維持や管理・学校経費の運用等の指導と監督にあたっている。学区取締はまた、中学区内の学事を進捗させることにつとめるほか、就学・学則・生徒の増減・試験などの県への届出や報告を経由する行政事務機関ともなっていた。旧長野県では特別の規定はみられないが、受持区を担当するほか、県庁や師範学校に交替で勤務し、県の教育事務を担当している。第一中学区の北村門之丞(もんのじょう)は、明治七年二月、西尾張部の格知学校、小島の逞義(ていぎ)学校、石渡村や東和田村の小学校へあてて、学校における飲酒・ばくちや学務以外の集会等の禁止、教員の心得、生徒の読書の指針、教えの統一とそのための教員集会による協議、教授法、就学の督励(とくれい)・学校の管理運営などにわたった内容の指示を出している。
このような仕事を進めた学区取締の給料は、当初文部省の小学扶助(ふじょ)委託金から支出されていたが、明治七年八月の改正で住民の負担となった。一般行政の整備が進むにともない、教育行政と一般行政の一体化がはかられるようになり、同十二年に郡制が施行されて、郡役所が設置された。これによって教育行政の権限が郡長に移ると、中学区は解消され、学区取締も廃止となった。
各町村においては、学事を担当する役として「学校世話方」が設けられ学区内の有力者が選ばれた。学校世話方は、学校設立・資金確保・教具準備・就学促進・教師確保と給与など学校の設立・開校に関する事務を担当し、設立後は学校の管理運営にあたった。
長野町では、後町の丸山彦三郎、大門町の坂口茂左衛門と宮下滝三郎、東町の諏訪部庄左衛門、横町の小宮山三左衛門、岩石町の宮下甚左衛門、新町の小林久七、桜小路の栗田茂左衛門、西町の小林左兵衛、西之門の鷲沢平六と藤井伊右衛門、上西之門の牧野正左衛門、横沢町の高橋彦輔の一三人の有力者が学校の設立にあたった。学校世話方は「世話方惣代」や仕事の担当により「世話方営繕方」「学校定勤(定詰)」「世話方勘定方」「世話方事務担当」を置いたりした。明治七年には、学校の事務担当が一人、専任として置かれることとなった。同九年八月の旧長野県と筑摩県の合県後の十一月には、全公立学校に「校内の事務を整理し、公費出納(すいとう)計算を宰(つかさど)り、その責に任ず」る者として「学校執事」が常置され、管理責任者となった。
長野学校は、幾度かの会議をへて、校地は旧宝林院境内と決定し、旧長野県の楢崎権参事らの検分のうえ、これまでの庫裏などの建物はそのままにして、北に一五間×四間、南に一〇間×二・五間の二棟を建てることになった。明治六年八月下旬から取りかかったが、大工職人の不足で工事が遅れ、最後は戸長(こちょう)の力で地元の大工を集め、十二月の開校に間に合わせようとした。この建築にさいし、長野学校の世話方一三人と副戸長二人は、区長露木彦右衛門・矢島吾左衛門の奥書をつけ、同六年八月、学校新築入費金に支障があるということで、一〇〇〇円の拝借金を県へ申しでて交付を受けている。また、長野学校の世話役の一三人が、長野村全域をまわって寄付金を募った記録が残されている。同六年七月の学資寄付金簿には、長野村全域の内訳が記されており、後町では七〇円の金沢久右衛門、六〇円の丸山彦三郎・市川藤八から二円のものにいたるまで、三〇人分三三四円五〇銭、長野村全体で合計六六四〇円七五銭が集められている。高額寄付者は、学校運営資金だけでなく、町内の他の寄付金もあって、金額の決定までには世話役との折衝(せっしょう)が何度にもおよんだ場合もあった。
新築された長野学校の開校日(明治六年十二月五日)の景況を、世話役藤井伊右衛門はつぎのように記している。「開校のため、早朝より羽織袴(はおりはかま)で待機していた。長野・妻科・権堂・問御所・箱清水・腰・茂菅七ヵ村より、五七〇人の生徒が父母の付き添いで来校した。村別に休息所を設け、長野村を二回、他の村を一回、合計三回に分けて生徒を校舎へ入れた。生徒はベンチに腰を掛け、付き添いの父母はうしろの板の間にうすべりを敷いて腰をおろした。役人が席に着き、教師三人が順番に、学問をしなければならないわけを説いたうえ、小学生の心得について話して聞かせた。来賓・教師が退場後、赤飯を紙に一包ずつ生徒・父母に渡した。それは一二時ごろであった。この日は午前七時より学校に来て、最後の祝宴は午後三時すぎに終了した」(『県教育史』)。
このように開校された現長野市域の小学校は、明治六年の「仮開業学校統計表」によると、表32のようである。その大半は、十二月の仮開校を予定していたが、実際の開校は翌七年にずれこんだ学校もあり、吉田村、三輪村、五十平(いかだいら)村、赤沼村、六地蔵町、上駒沢村、綿内村などが七年であった。