明治七年(一八七四)になると、多くの村々で小学校が開校されるようになった。現長野市域では、六、七年度で、開校数は表35の概況にみられるように、水内郡三〇校、更級郡二四校、埴科郡七校、高井郡四校の合計六五校を数えるほどになった。
これらの学校は、近隣の村々との共同で設立しているため、地勢の違いなどから、学校規模の差も大きかった。大規模な学校には、長野学校(長野町、学齢一四一九人)、松代学校(松代町、同七八二人)、通明学校(御幣川村、同五七七人)、罄宜(けいぎ)学校(久保寺村、同四二〇人)、日新学校(今里村、同三八〇人)などがあった。いっぽう小規模な学校には、承運学校(水内郡東条村、同六一人)、共愛学校(吉村、同六二人)、川合学校(更級郡川合新田村、同六二人)、鐘美学校(中御所村、同六二人)、研究学校(更級郡牧島村、同六四人)などがあった。
校舎については、明治九年の状況は表33のようである。学制による学校設立をスムーズに進めるため、旧長野県は、とりあえず寺院や民家を仮用し、資金ができたところから新築するという方針をとった。その方針にしたがい多くの村々は、学校の位置や校舎を適宜見立てて、開校にこぎつけた。
校舎を新築したのは、現長野市域の学校では同七年までに、水内郡八校、更級郡一〇校、埴科郡〇(零)校、高井郡一校であった。これが同九年になるとそれぞれ、一五校・一四校・〇(零)校・一校となっていて、水内郡・更級郡に増加がみられるが、埴科郡は依然として〇(零)校、高井郡は一校のみであった。寺院・民家等の仮用は水内郡二四校、更級郡一二校、高井郡四校、埴科郡七校もあり、ことに更級郡・埴科郡では寺院の利用の割合が高かった。
教員数をみると、有資格者の教員の確保が困難のため、開校当時はどの学校も少人数であった。松代学校の七人、長野学校の五人、通明学校の四人が目立ち、多くの学校は一人であった。採用されたのは、士族・寺子屋の師匠(ししょう)などであったが、やがて近代教科と新しい教授法の伝習を受けた講習所修業者が登用されるようになった。学校の整備が進むなかで教員数もふえていくが、有資格者の訓導が足りないため、小学校卒業生のなかから、優秀なものは授業生として採用され、免許状をもたないままこどもたちの指導にあたった。
長野学校の訓導の月給は、明治七年ごろは四円から六円、同十一年には五円から七円、授業生が三円から四円五〇銭、ほかに半月給や日給の授業生もあった。
各学校の就学状況をみると、仮開業の明治六年では、学齢数の多い長野学校・松代学校や日新学校・塩崎学校では、男子の就学率が他に比べて低い。他は五〇パーセント前後かそれ以上の高い率を示す学校が多く、とくに格知学校・東福学校・稽徴(けいちょう)学校・聿脩(いっしゅう)学校・赤沼学校は九〇パーセント前後を示している。それに対し、女子の就学率はきわめて低く、就学者がゼロという学校が、二八校中六校にもおよんでいるほか、一二校は就学率が一〇パーセント以下である。高いところでも聿脩学校・赤沼学校の四〇パーセント台、東福学校の三〇パーセント台、格知学校の二〇パーセント台であり、女子就学の困難さがみられる。
その後、授業料に配慮するなどの就学方策もあって、就学率はしだいに向上するようになった。清真学校・長沼学校・研究学校・三才学校では、七〇パーセントを超える高い就学率で推移している。しかし、それらの学校であっても、女子の就学率は二〇~五〇パーセントである。二〇パーセント未満の学校も多くあり、男子の高まりに比べ女子に対する教育観や家庭の経済的事情など住民の意識の状況がうかがわれる。
学制で設けられた小学は、下等・上等に分けられ、まず下等から設置された。それぞれの課程は、小学教則によって各八級に分けられた。下等八級から上等一級にいたる毎級の学期は六ヵ月とされ、下等小学四年・上等小学四年であり、現在のような学年制ではなく、等級制であった。学校では下等小学教則により生徒は毎日、復読・体操・読物・書取作文・算術・習字の授業を受けた。そして六ヵ月ごとに、下等八級から上等一級まで順次、進級のための小試験と全科卒業の大試験を受けた。試験には、各学校からの願い出により、学区取締が出向(しゅっこう)して立ち会っている。下等小学の全科卒業生が出たのち、明治九年になって、長野学校・励精学校・作新学校・氷鉋学校・松代学校に、上等小学が設置された。同十一年になると、現長野市域では水内郡三五校中一一校、更級郡二六校中一一校、埴科郡七校全部、高井郡五校中二校に上等小学が設置されるほどに、学業の進展がみられるようになった。試験の成績の優秀なものには、県の学務課に願いでて、賞扇(しょうせん)をもらいうけてあたえ、学業の励みにさせていた。
こうした学校の経費は、現在は設置者・受益者・国庫の三者によって負担されているが、この時期は、設置者負担は賦課(ふか)金と寄付金であり、自己受益者負担の受(授)業料は各校随意であり、国庫負担は小学扶助委託金という名目の補助金であった。長野学校の場合、学校の設立・維持の資本金をつぎのように集めていた。
一、石高割 一石につき五銭(県の計画と同じ)
二、商家賦課金 一戸あたり一等三円、二等一円二五銭(県は一円五〇銭)、三等五〇銭、四等二五銭
士族についても県では、石高一石につき一〇石未満は二銭、一〇石以上は三銭、二〇石以上は五銭、三〇石以上は一〇銭というように、各段階に応じた拠出を求めている。
右のような賦課金だけでは財源として十分ではなく、県では住民の自由意思による寄付金を勧めた。明治六年六月旧長野県では、寄付の方法や献金額を本人に預けた形として、毎年利子を納入する加入金方法と、毎年いくらかずつの金額を納入する方法のどちらのやりかたでも勝手次第として公示した。
受業料について県は、当分のあいだ上等一〇銭・中等五銭・下等二銭とし、一小学校の入校生を二〇〇人(上等三〇人、中等六〇人、下等一一〇人)と見積もり、一小学校で一ヵ年九八円四〇銭を集めて、教師三人の増給にあてようと考えていた。長野学校の受業料について、学制および旧長野県と比べたものが表34である。文部省、旧長野県、長野学校と地域に密着するにつれ低くおさえており、各学校世話方が地域の人びとの生活実態や各学校の状況に応じて、現実的な対応をしているようすがうかがえる。この結果、受業料なしの学校もあり、更級郡で二〇校、旧長野市域では北高田・千田・石渡・中御所など犀川・千曲川に近い村々、それに笹平などはそうであった。
こうして設立されていった学校の経費は、収入の大半を寄付金に依存しているところが多く、寄付金の割合は長野学校と万綏(ばんすい)学校約六十パーセント、清真学校約九十二パーセント、格知学校約八十パーセント、作新学校約六十五パーセント、格物学校約七十五パーセント、通明学校約六十パーセントにのぼっている(図9)。
賦課金の校費に占める割合は、地域による差が大きく、絶対的な資金源とはなっていない。また、受業料はとらないところもある状態で、徴収しているところでも校費に占める割合は低く、資金としての位置も小さい。諸経費を差し引いて不足金の生じる学校がほとんどで、現長野市域では、水内郡で長野の洗心学校をはじめ一七校、更級郡一六校、埴科郡四校、高井郡四校におよんでいる。必要な校費をどのようにふやしていくかが、どこの学校においても開校当時の大きな課題であった。明治六年から十一年までの現長野市域の学校概況を示すと表35のようである。