師範講習所と医員講習所

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国の教育制度によって近代学校を設立するにあたり、県が施策しなければならない重要なものに、近代教育を担当できる教師の養成があった。教員は、私塾・寺子屋の師匠や藩校の教授・郷学校の教員などの経験者をはじめとして、その土地の有識者が主に任用された。旧長野県は、それらの教員を再教育して小学教則と授業法を習得させ、正則教授ができる教員を養成して、早急に有資格者を各校へ一人あて配当することを計画した。その教員の養成所としての講習所を設置するため、まず講習所教員の予定者を選考し、官立東京師範学校へ派遣して伝習を受けさせることにした。

 明治六年(一八七四)七月、旧長野県は、松代の小林常男・関口雄・塩野宣健、上田の稲垣信・斎藤萃造(すいぞう)、飯山の石原衡、小諸の成瀬利貞の七人を東京師範学校へ派遣した。かれらは約一ヵ月の伝習をおわって、八月三日に帰県し、講習所にあてる予定の長野村東之門町宝林院念仏堂に入った。しかし、宝林院が手狭で新校舎建築までのあいだ善光寺大勧進を仮教場として使用することとなった。

 明治六年九月二日、文部省の認可を待たずして「仮講習所(かりこうしゅうじょ)」として開設された長野県講習所は、帰県した七人の伝習生を教師として、最初下等小学担任教員の養成を開始した。また、長野学校(城山小学校の前身)の児童二〇人ほどを附属学級として授業を開始した。そして、現職教員を順次交代して受講させ、資格試験の結果免状をあたえ、県下の学校へ順次配置し、各校に有資格者が一人あて在勤する方策をとった。各学校では、資格のある正教員を首座訓導とし、その指導監督のもとで無資格授業生が授業を担任していた。第一回の受講生は九月二十八、九日に試験(読書・算術・作文の三科目)を受け十月二日に入所した。このときの人数は二七人で、士族が一八人(松代六、上田六、飯山四、須坂二)であった。十月から十一月までに三回おこなわれた講習の受講者は一〇二人におよび、うち士族が七七人で平民の四倍になっている。早く公立小学校数に応じて正教員を配当するため、講習の続行が必要であり、また、講習所でなく正規の教員養成機関を設置することが必要であった。

 旧長野県は、明治七年一月講習所設置伺いを督学局第六大学区担当官に提出し、一月十七日設立が認可され、「長野県師範講習所」と改称された。同時に講習所教員三人(関口・斎藤・成瀬)を再度東京師範学校へ派遣し、教育内容と教員組織の充実をはかり、さらに、得業生の招聘(しょうへい)を願いでた。九月には長野県師範講習所の校舎を長野村西町の西方寺にも分設し、寄宿舎を西後町の正法寺に設けている。十月に文部省は県の要請に応じて、官立宮城師範学校卒業の衣笠弘を派遣した。この派遣により、今までの伝習から正課講習に切りかえている。こうして十二月までに小学教員仮免許状を交付したものは三四五人にのぼり、その内訳は一等訓導二四人、二等訓導六一人、三等訓導一七一人、訓導補助八一人(県教育史⑨七七〇頁)であった。

 翌明治八年三月、師範講習所は県に対して附属小学校の設置を願いでた。また、長野県師範講習所規定を定め、教則を歴史・地理学・算術・作文とした。さらに五月には「師範学校改称伺い」を出し、九月には長野村竪石(たていし)(現長門町市立図書館の地)に校舎の建築を始めた。十月二十五日には、再度、長野県師範学校設立伺いが提出され、十一月十七日に認可され、同時に校名の改称も認められて「長野県師範学校」となった。新校舎が十一月二十四日に落成し、十二月二日長野県師範学校の開校式が新校舎でおこなわれた。校地は面積七反五畝三歩で九人の地主から二五九円一銭二厘五毛で買い上げ、新校舎は、本館・教師館・食堂の三棟と寄宿舎で、総工費五七五四円九一銭二毛であった。同九年八月、旧長野県と筑摩県は合併して筑摩県師範学校は長野県師範学校の松本支校となり、本支校合わせて生徒定員を二〇〇人とした。十一月教則を改正し、生徒取締規則・旅費規則を制定し、本支校共通とした。同十年には校帽を制定し、本支校の生徒に貸与した。同年六月には、長野県師範学校職制を制定し、十二月には、飯山・上田・岩村田にあった支校を廃止した。同十一年の明治天皇巡幸のさい寄宿舎を増築して二棟となった。明治天皇は、同年九月九日に長野県師範学校へ臨幸され、授業をご覧になった。そのときの授業は、広間の北側で小林常男が師範の生徒一二人に一次方程式の授業をおこない、また、南側では、教員堀川常吉が正比例の授業を、教育実習生の秋野太郎が弗氏(ふっし)生理学を教授した。このとき集められた生徒は長野学校から一六人、上田の松平(しょうへい)学校から九人、常磐城(ときわぎ)学校から三人、埴科郡中之条の格致学校から二人の上等小学四級と六級の二組の児童三〇人であった。そのあと校庭で上等小学八級(一〇歳)と、下等小学一~四級(九~八歳)の男女児童一五〇人が三組に分かれて体操を演じた(『長野』第九一号)。このときに、天皇の御座所として使われた長野県師範学校の教師館は、その後取りこわされずに残っていたが、昭和四十六年(一九七一)飯綱高原の一角、長野市上ヶ屋麓原へ移築され、のち県宝に指定されている。


写真69 天覧授業のおこなわれた長野師範学校校舎
(『写真にみる長野のあゆみ』より)

 明治十五年、長野県師範学校へはじめての専任校長として、学習院教授だった能勢栄(のせさかえ)が来任した。能勢はペスタロッチからジョホノットに発展する近代教授理論とともに「級決(生徒みんながいいということ)・教可(教師がよしということ)・各唱・斉唱・挙手・板書・拭板」などの新しい教授用語を使い、「開発教授」を説いた。バイオリンを弾いておどろかせたり、また、新しく教育学・心理学・教授法・学校管理法・唱歌・体操を取り入れるなど、以後の教育に大きな影響をあたえた。

 そののち明治十六年六月には、松本支校を廃止しその跡地に長野の本校を移す。同十九年九月、ふたたび長野に移し、長野県尋常師範学校と改称し、現在の信州大学教育学部の地に敷地を確保し十二月より着工。同二十年十月二十五日に開校式をおこなう。また、十二月には附属小学校も開校する。同二十一年には、師範学校女子部が校地内に新設され、二〇人を募集した。この女子部校舎は当時「女学校」と呼ばれていた。

 いっぽう、明治維新まで日本には統一された医師養成機関はなかった。従来の開業医(いわゆる町医者および俸禄による医者、いわゆる御典医)の医育の方法は、主として自分の子弟を養育して世襲とし、その学業を習得するために、御典医や町医者の学識・力量・徳望ある師を選び、その家塾に入門して勉学し、治療法の修練を積み、医院を開業するのが慣習になっていた。長野では、入門して師事しようとする指導者として善光寺別当大勧進付きの医家につくものが多かったという。

 明治八年「地方共立病院設立概則」が布達された。病院を設立する場合は、この「概則」によらなくてはならないことになった。その内容は、有志の人民が資金を出して運営し、出資者には鑑札があたえられ、これを提示することによって出資者は無料で診療を受けることができるとした。また、無鑑札のものからは診察料、薬代を取り、困っている人の薬代にしたり、出資者に割りもどすというものであった。

 明治八年二月には県から地方共立病院設立の議についての伺いが文部省に提出された。これは、長野町に前年七月山下晋ら九人が旧病院を廃止して新たに共立病院を設立するという伺いである。山下晋ら長野町および付近の医師は、この直後に昨年設立した病院の廃止願いを県あてに出している。長野県は旧施設を引き受け、長野県病院として長野町大門町四八番地の民家を借りて、同年七月十七日に開院した。当時の職員は、院長に高階経倫、医学教授に遠藤俊夫、医員として山下ら七人をあて、営業を始めた。六月、院長の高階と医師遠藤は連名で病院内で医学教授をおこないたいと願いでたが、旧長野県では医学校の構想はあったものの実現にはいたっていない。

 明治九年二月長野町西後町の本願寺別院(正法寺)に病院を移転して、大野九十九(つくも)が院長となる。当時はまだ西洋医術の信用はあがらず、経営のために年々県費より一五〇〇円を補助してもらい、そのほか篤志家の寄付金によって経営していた。同十年三月、土屋寛信が院長となり、同十一年二月病院を長野町西町の西方寺に移して、病院内に、のちの医学校の前身である医員講習所を併設し、山口県の半井成貿が院長となり、医員講習所長を兼ねている。

 医員講習所の開設の目的は、明治十年七月の県達乙第六四号によれば「病院を配置し、諸伝染病流行病予防をすることは、各地のもっとも緊急にすることとはいっても、資金の準備がないばかりか、医員もまたその責に任ずることができるものが得がたい。よって県下に一つの医員講習所をおこし、(中略)区内の諸伝染病の流行予防に従事させ、もって目下の急を救う」とあるように、伝染病予防のため、各大区より医員を出させて再教育し区医を養成することを目的としたものであった。しかし、開設は遅れ、同十一年二月になってからであった。

 医員講習所では、生徒は講習医・公費生・自費生の三種類に分かれており、県下の開業医を順次招集して連日医学の講習をおこない、新しい医学知識の普及をはかった。明治十三年七月、医学講習所を改めて県立病院付属医学校とした。医学生の募集については、本県管内で五二大区より毎区二人以上の医学生を募集し、医学科の大意を講習させ、同時に各大区より一人ずつ公費生徒を募った。また、自費入学のものをあわせて五十余人が集まった。

 明治十三年になって、生徒の数を三〇人に減らした。この背景には、三十余人の半途退学生を出した事実がある。以後は、減員をしたり、新規募集があったりして多少の増減はあったが、平均して五〇人内外の定員であった。八月になり、新しく長野町大字南長野字高畑に新病院建築の起工式をおこない、翌十四年七月に落成した。

 明治十八年六月、医学校は廃止された。これにともない、病院は独立し長野県立長野病院となった。


写真70 上水内郡医師組合の治療費・薬代等の申し合わせ (関泰三所蔵)