戊辰(ぼしん)戦争にさいし、全国神社を統括する神祇(じんぎ)大副吉田家と白川家は、信濃の神官にも上京をうながした。王政復古・祭政一致のスローガンのなかで、神社は政治のなかに組みこまれ、上京した神官には北越の戦争に従軍したものも多かった。
慶応四年(一八六八)正月、律令制の昔に習って神祇官を設置し、政府がみずから神社統制に乗りだした。また、同年三月には神仏分離令(ぶんりれい)を発布して、神仏混淆(こんこう)を禁止した。
この政策により江戸時代には僧として生活した別当や社僧は還俗(げんぞく)し、神主か社人に転向しなければならなかった。明治二年には版籍奉還がおこなわれ、藩から認可されていた社寺の「朱印地(しゅいんち)」や「除地(じょち)」はその特権が保障されなくなった。国は「社寺領上地ニ関スル件」という太政官布告で、境内地以外のすべての土地を、いったんは国家に奉還させた。
神仏混淆の宗教界を、神仏分離の政策によって仏教と神道に大別することができたが、神社の統制はなかなか進まなかった。明治初期は、明治維新の動乱で戦死したり横死した人を祭る招魂社が、各旧藩単位につくられた。松代にも五二人の戦死者を祭る「松代招魂社」が妻女(さいじょ)山頂に創建された。このような新種の神社と、古代以来の由緒ある神社や村々の神社を格づけする必要が生じてきた。
朝廷は、古くから由緒ある神社には勅使を代参に立て、官位を付与してきていた。したがって神社には古くから社格があったのであるが、明治四年五月にいたって太政官は左のように神社の社格を定めた。
官幣(かんぺい)大社 官幣中社 官幣小社 別格(べっかく)官幣社 国幣(こくへい)大社 国幣中社 国幣小社
諸社(しょしゃ)
府(ふ)社(藩社) 県(けん)社
郷(ごう)社
郷社というのは郷村の産土神(うぶすながみ)を祭る神社で、以後は延喜式神名(えんぎしきじんみょう)帳や六国史に記載されているところを検討し、社格を決めていくとされた。太政官の郷社の定義は、戸籍区ごとに一社というもので、その戸籍区に五社あったとしたら、その五社のうち式内社か地方の信仰の厚い神社を郷社とするように、という指導をした。一社で何ヵ村にもおよび、千人余の氏子をもっているものは、そのまま郷社に認定すると郷社の定則で述べている。
このときに長野県では諏訪神社が国幣中社に列せられたのみであった。のちに国幣社に列せられた生島足島(いくしまたるしま)神社(上田市)と戸隠神社がこのときは県社に列せられた。明治五年にいたり神祇省は先に発布した「社格定則」により、郷社決定の下調べを始めるために、各神社にそれぞれ自社の社格の見込みをつけて伺いでるように指令した。水内社のようにその歴史は古いが、長い歴史時代のなかでその所在が紛れていたものもあった。水内社を名乗る神社が数社もあり、最終的には善光寺の年神堂がそれと認定され、郷社(のちに県社)に列せられた。これが現在城山の地に鎮祭される健御名方富命彦神別(たけみなかたとみのみことひこかみわけ)神社である。
当初は「社格定則」に盛りこまれなかった郷社の下の社格として村社が生まれた。行政村がしだいに広範囲になると、小字単位でなされていた庶民の生活は、学校も神社も新しくつくられた行政村単位となり、この体制のなかで神社の統合がおこなわれ、行政村中の一の宮と認められた神社が村社となった。茂菅村(長野市)では飯綱社が村社、宇賀社と八幡社が雑社と格づけされた。
神社の社格の昇格申請活動は、第二次世界大戦中までつづいた。社格の決定は利害をともなうので大問題であった。とくに、小字(こあざ)単位に祭られていた神社が村社にご神体ごと統合されるか、または雑社として位置づけられるのかの岐路に立たされたのである。神社合併でしばしば紛争(ふんそう)が起こっている。美和神社は、つぎのように多くの神社を境内にもっているが、これは明治初期以来の神社統合の結果生じたものである。
三輪村字相木東 美和神社 村社
九一 諏訪社(五社) 素戔嗚社(四社) 八幡社(九社) 海津(わたつ)見社(四社) 玉御祖社 浅間(せんげん)社(二社) 市杵島姫社 大神(おおみわ)社(三社) 事毘羅(ことひら)社(四社) 伊射波(いさわ)社(二社) 村山社 日吉(ひえ)社 稲荷社(二社) 飯縄(いいずな)社 野見社 金山彦社 山津見社(二社) 大穴牟遅(おおあなむち)社(二社) 白山比咩(しらやまひめ)社 天神社(四社) 野槌社 富毘社 迦具土(かぐつち)社 八街神社 氷川社(二社) 武甕槌(たけみかづち)神社 敢國社 住吉社(三社) 水無社 大牟神社 三島社 鹿嶋社 出雲社 日前(ひのさき)社 天夷島社 吉備社 春日社 塩槌社 五十健社 事代主社 祝田社 少彦名社 忌部社 岐船(きふね)社 天御住國御住社 豊受姫社 安仁社 玖々奴知社 佐波良社 倭文社 萱野姫社 月讀社 玉依姫社 宇波西社 角避比古社 柏山社 猿田彦社
長野県は、明治六年二月檀家がなく住職のいない寺院の廃止を回達した。この政策は神道側からの運動の結果でもあり、淫祠邪教(いんしじゃきょう)社の廃止という主張もあった。また、教導職(きょうどうしょく)を設置して国民教化に乗りだしたので、教導職の一員である僧侶が托鉢(たくはつ)などの仏教的活動をすることを嫌悪した面もある。同五年十一月に教部省は「僧侶托鉢禁止」を布達した。つづいて翌六年一月には憑祈祷(とりつききとう)、口寄せなどの人心を幻惑する所行はきびしく取り締まると布告したのであり、これらの宗教行政の一環として廃寺廃堂が布告されたのである。
埴科郡松代地区の廃寺廃堂は表36のようである。廃止された寺院には尼寺もあった。各町村には尼僧の住む庵があり葬式の枕経を読むなど、住民とは深い関係にあったが、これらも廃止されたのである。廃寺廃堂は寺院のなかのいろいろなお堂も対象であった。大日堂・薬師堂などが廃止されて届けられている。この政策も尻つぼみになり、のちには多くの庵やこれらの寺院が復活している。