長野県中教院の設立と紛争

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神官と僧侶のあいだに、また、仏教各宗派のあいだにそれぞれ指導権をめぐって紛争(ふんそう)が絶えなかった。明治六年(一八七三)九月に「中教院建設大略」五ヵ条が、管内の神官に配布され神官の意見が徴されている。それによると、①各区区長と副区長が布教の世話係となること、②神官の俸給は大区協議費から支出すること、③区長・戸長が村の産土神(うぶすながみ)のお札を各戸に受けさせるために努力すること、④僧侶の中教院経費の負担額は大寺か上級の僧の教導職(きょうどうしょく)に相談して決めること、⑤一般寄付も受けること、が記されている。

 明治六年十一月にいたって長野県は中教院設置の件で区長・副区長に、①中教院建設に理解と関心をもってかかわること、②郷(ごう)社・村社の神官の給与は村費等からの支給を心がけること、③旧修験道の僧は天台・真言に帰入したかどうか申告をするように指導することを布達した。政府は神官の保護を打ち出したが、数も多く説教も上手な僧侶の方が教導職に向いているという、皮肉な結果があらわれてきた。

 明治六年九月ごろから、神道諸宗教導職を中心に中教院仮事務所の設置が進められた。いっぽう、浄土真宗は一宗だけで教院を設置し、独自の布教と教導活動をおこなうことを計画していた。そこで、浄土真宗を除く天台宗・真言宗・禅宗・浄土宗・時宗・日蓮宗が合同で大教院を設立し、神官・僧侶を合併して教院を運営していくことを、同年十一月八日に管下の全寺院に通達した(明治六年長野県庁文書)。この文書中には、地方の神官・僧侶が中教院に合意できない場合は、僧侶のみで合議所を結成して中教院の規則に準じて運営するようにとの指示もみられる。

 翌十二月十五日には、七宗総代権少講義の北沢善栄(上田町芳泉寺住職)と一四級試補林海達(善光寺威徳院住職)の二人から大教院七宗管長に対し、長野県の対処方法である「合議所方法書」が提出された。長野県の場合も中教院設立には僧侶の合意が得られないので、善光寺寺中(院坊)の常智院に七宗合議所を設立したいと上申している。これに対し大教院は、地方庁(県庁)へ届けでることを指示した。

 明治七年五月に「合議所仮規則」が定められた。この規則により政府と県が推進する中教院とは、別の機関が設置されたのである。しかし、この規則から合議所の機能をみると、各宗の布教の調整機関であり、あわせて優秀な僧侶を抜てきして学問をさせる研究教育機関の性格が強い。合議所組織の基本として、「七宗議定」という書類がつくられた。この議定書によると、事務所は善光寺寺中の常智院に置かれ、七宗の会計長は大勧進、神官応接係は各宗から三人あて選出する規定であった。毎日の業務は各宗から二人の僧侶が、朝八時から夕方の四時まで合議所に詰めておこなう手はずであった。合議所勤務の僧侶の月給は七円五〇銭であった。このように、神道と仏教側の思惑が分裂しており、また浄土真宗は仏教中でも独自路線であったから、中教院構想はまとまらなかった。

 行政側の強力な指導で、明治七年七月十七日に長野県中教院は難産の末に産声をあげた。中教院開院の布達は区長・副区長に通達された。長野市千田区所蔵の「諸願書御布令書記」には、教部省の認可で武井神社に仮の中教院を設け、大勧進(だいかんじん)に神官僧侶の合議所を設けることになったので、七月十七日に祭典をおこなうから聴聞に出席するようにというお触れ(回達)が収められている。このように村々に中教院開設の触れが回された。

 開院の祭典は七月十七日から十九日まで三日間おこなわれた。その景況ははなばなしく、長野の町内は町ごとに神幟(しんし)数本も立て、家々は軒先に神灯と斎竹(さいちく)・垂(しで)を飾った。武井神社は外殿の三面に観客を収容する桟敷を設け、拝殿の階前に五メートルもの榊(さかき)を立ててそれに五色の帛(はく)を飾り、外殿に幕を張り注縄(しめ)を張りめぐらせた。

 祭典は大講義宮崎信友が祭主となり、神官・僧侶四二人が奉仕した。第一日の十七日には、東之門町にあった伊勢皇太神宮の御旅所(おたびしょ)(中教院仮事務所)から御霊代(みたましろ)を東町の武井神社に遷御し、午前八時から大祓式(おおはらいしき)をおこない、十一時からは御霊の鎮祭式をおこなった。式典はまったく神道の儀式である。ついで神道と仏教の説教がおこなわれ、県令代理が二円五〇銭の幣帛(へいはく)料をささげ祝詞(のりと)を奏上した。

 当日参集した民衆は三〇〇〇人にのぼり、参加した教導職は六四八人におよんだ。第二日・第三日も同様な行事がおこなわれ、三日間に参集した民衆はのべ八七〇〇人余であったと、大講義宮崎信友と中講義畔上楳僊(あぜがみばいせん)執筆の「中教院開院顛末(てんまつ)届」にみえている。


写真73 武井神社

 このように分裂傾向を内包して出発した中教院は、浄土真宗の問題解決ができず、長野県は開院式の翌月の八月三十日に教部省に対し、浄土真宗を中教院から分離させる可否を伺った。これに対し教部省は合議所の名称を廃止し、少教院と称させるように指導した。

 中教院が開設された明治七年七月から九ヵ月後の同八年四月、教部省は合併教院廃止の布達を出した。仏教諸宗派の内紛と神道仏教の争いで国民教化の目的は挫折(ざせつ)しそうであったので、太政大臣三条実美(さねとみ)は合併教院廃止後は各自に教導すること、「三条の教則」は遵奉して神道諸宗の教院を設立することを命じた。政治の一線から距離を置いた三条実美は、キリスト教取り締まりや国民教化の中心に立っていた。

 旧長野県中教院は、明治八年五月九日付けで大教院達に添えて県下の教導職に対し、誤伝や憶測で他人を動揺させないこと、教則を説くことに努力し、神道も仏教も協力して朝政を支えるよう通知した。明治維新政府の重要な政策であった神道国教化と国民教化は、末端の組織であった教導職が十分に機能せず、その効果をあげることができなかったのである。