明治新政府が成立したが、民衆に天皇の存在は十分認識されていなかった。将軍にかわる国家の中心をアピールするために、天皇の全国巡幸が計画された。最初の巡幸は「奥羽御巡幸」であり、明治九年(一八七六)六月二日から七月二十一日までであった。新政府に最後まで敵対した東北地方を巡幸し、天皇を通じて東北人民を新政府と一体化させるという政治的目的があったのである。
翌明治十年には近畿地方を巡幸したが、この旅行の目的は、父孝明天皇の式年祭出席と神武天皇陵参拝が主目的であった。同十一年になり、八月から十一月にかけて、北陸・東海の巡幸が始まった。二ヵ月余におよぶ大旅行であった。巡幸路は浦和、熊谷、高崎、追分と中山道を通り、小諸から北国街道に入って、長野、高田、柏崎、新潟と進み、引き返して糸魚川、富山、金沢、福井、草津(滋賀県)を通って京都に入り、岐阜、名古屋、静岡、小田原をへて東京に帰る行程であった。
九月当初に碓氷(うすい)峠を越えた天皇の一行は、九月八日に上田から長野に到着した。四〇キロメートルの道を一日で移動するので、上田発は朝の六時であった。九時に坂城駅の宮原家で小休止のあと、十時半に下戸倉に到着して昼食をとり、屋代で小休止、原(長野市川中島原)の伊藤盛太郎方で小休止し、丹波島の柳島ひで方で小休止ののち、巡幸の一行は船橋で犀川と裾花川合流点の渡し場を渡り、善光寺街道を北へ進んだ。
『信濃御巡幸録』によれば、丹波島の河原には同書の記者が「拝見人」と呼んだ天皇を出迎える人々が、雲霞(うんか)のように参集していたという。学校の生徒は洋服で二列に並んでいたと記されているが、洋服を着ていたのは、長野師範学校の生徒であったと思われる。裾花川の渡しから県庁までは約二十丁(二キロメートル余)であったが、その間の人波は山をも崩す勢いであったという。
いっぽう、巡幸の行列は右大臣岩倉具視(ともみ)を筆頭に、大蔵卿大隈重信、内務大書記官品川弥次郎、天皇の守役的剣客の山岡鉄舟(宮内大書記官)、大警視川路利良など、供奉(ぐぶ)者はおよそ七百二十人、馬丁など人足は約千人におよんだ。巡幸の一行は午後四時ごろ長野町に到着した。行在所(あんざいしょ)は善光寺の大勧進であり、天皇と女官(にょかん)がここに宿泊し、天皇の馬車(御輦(れん))と乗馬(天馬)も大勧進(だいかんじん)の庭に繋留(けいりゅう)された。
お供の人たちはそれぞれ善光寺近隣の寺院、旅館、または民家に宿泊した。右大臣岩倉具視は新(あら)町の中野直行方、参議大隈重信は大門町の高野平左衛門方、宮内卿徳大寺実則は横沢町の久保田周三方に宿泊した。大警視川路利良は大門町の藤井平五郎(本陣)方に、宮内大輔杉孫七郎は新町の林数右衛門方、式部掌典橋本実梁は西之門の藤井伊右衛門方に宿泊している。多くの供のものは同一任務のものごとに、院坊や旅籠(はたご)に宿泊した。
天皇巡幸の準備は綿密におこなわれた。西南戦争の戦死者名簿が作成され、名産品が天覧のために集められ、名所旧跡が調査された。食事に関してはとくに厳密で、長野地区は水質が悪いという判定で、水質の検査には相当の配慮がされ、良質の水を遠方から長野まで運んできている。巡幸の途中の街道筋で、人や馬が飲む水についても、事前に井戸や泉も水質検査がおこなわれ、合格した水のみが飲用に供された。
長野での訪問先は最初が県庁であった。天皇は各課を巡覧されたのち、博物所から製糸場へ臨幸され、ついで師範学校、裁判所支庁を訪問されたのち、行在所へ帰られた。師範学校では天覧(てんらん)授業がおこなわれ、小学生一二人が教員小林常男の出題する一次方程式を解いた。秋野太郎の教室では生理学が講じられ、天皇は三〇分ほども見学した。このとき、長野師範学校には長野学校の生徒一六人、上田松平(しょうへい)学校生徒九人、小県郡常磐城学校生徒三人、埴科郡中之条の格致学校生徒二人の合計三〇人の小学生が集められていたが、この生徒は正比例の一題を解答した。天覧に浴した師範生は一円五〇銭、小学生は五〇銭を下賜された。
天皇を一目見ようという民衆は、雲霞のように押し寄せ騒ぎ立てたという。一生に一度のことだと孫や娘を引き連れ善光寺参りを兼ね、近郷近在から弁当を藁包(わらずつ)みにして行幸の前々日から泊まりがけで出かけてきていた人びとが多かったのである。
長野の町民と、長野の町と密接な経済圏の近隣の村のものが拠出して、天皇奉戴の気持ちをあらわすため、また、なにもごちそうするものがないからと、色あざやかな昼花火を打ちあげたのである。天皇は午後二時ごろから城山公園に臨幸され、公園の仮宮で花火をご覧になった。また、高台から善光寺平を一望におさめられた。花火は折からの雨で気勢があがらず、観客もびしょぬれになった。雨があがった午後五時過ぎ、天皇は馬車で善光寺の戒壇(かいだん)までお着きになり、楢崎寛直県令の先導で大本願副住職らとともに仏像をご覧になり、行在所の大勧進に帰られた。
翌九月十日の早朝七時に長野をたち、新潟県に向かった。新町(若槻)辺では生徒が袴(はかま)羽織または洋服のそろい、女性は紫の袴で数百人が並んで拝礼したと、『信濃御巡幸録』は記している。輦駕(れんが)は田子(たこ)(若槻)の池田家で小休止し、坂を上って牟礼駅へ向かった。