メソジスト教会の布教

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江戸時代前期の明暦(めいれき)二年(一六五六)に、上州沼田の城主真田信政が松代藩主となったとき、信政にしたがって松代町に移住した侍のなかに、少数のキリシタン武士がいた。やがて十数人が摘発(てきはつ)され、これらの人たちは「転(ころ)びキリシタン」となった。この人びとの子孫は宗門改めではキリシタン類族として扱われ、幕末まで特別に監視されていた。

 明治に入るとキリスト教の再布教が始まり、松代町には同町出身の松本総吾によってキリスト教が伝えられた。松本は横浜でキリスト教に触れたが、かれの接触した教派が美以(みい)教会(アメリカメソヂスト監督教会)であった。松本は聖書販売人として明治十年(一八七七)夏に松代町に帰り、友人知人のつてを頼って聖書の販売とキリスト教の伝道をした。

 美以教会は、早くから中国(清)に伝道していたので、日本が開国するといち早く宣教師を中国から日本に送りこんできた。横浜にはコルレル、ソーパーらの宣教師が駐在し、関東・中部地方に伝道活動をしていた。明治十年長野県東筑摩郡松本町でコルレルの伝道が実り、創設された松本教会に日本人牧師河邨(かわむら)天授が赴任してきた。メソジスト派は伝道熱心な教派で、松本総吾の伝道を支援するため、コルレルや河邨天授が松代町にしばしば伝道した。

 「講義所」の場所を借りるのも容易ではなかったが、明治十年十月にコルレルと工藤達申が松代町に来て、松本総吾の友人の弟の北村源之助の家の二階を借りてキリスト教の講義をした。しかし、町民の反応は芳しくなかったので、コルレルは伝道をあきらめ横浜に引きあげてしまった。翌十一年二月、河邨天授と松本総吾が松代町に来て数日間伝道した。このときは、キリスト教に関心をもつ人があらわれたが、入信する人はいなかった。

 同年六月になって宣教師コルレルと松本総吾が横浜から松代町に来て、キリスト教の説教と講義をした。このときの記事が、神戸で発行されていた『七一雑報』にみえるが、それによると北村源之助宅の六月五日午後三時からの説教会には一一一人が集まり、翌六日三時からの集会には二三〇人が集まったとある。抵抗感はあったのであろうが、かなり大勢の人びとが教会に関心をもつようになってきている。


写真76 明治15年松代美以教会記録一
(松代教会)

 コルレルにかわって同僚の宣教師ソーパーが松代伝道を担当し、同十一年十一月にソーパーと松本総吾が松代町に伝道した。伝道集会のあとで、キリスト教を求道するものは残るようにと案内すると、一三人が残った。この人たちが求道者(試中)として登録された。このときの伝道では、寺町の八田宅、石切町の横山宅でもキリスト教の集会が催された。ソーパーは北原村・南原村(長野市川中島)の宮田家、宮原家で伝道集会をおこない、この地の伝道はしばらくは継続した。

 明治十二年五月にコルレルが東京から、河邨天授と松本総吾が松本町から出張して伝道がおこなわれた。松本町から松代町に向かった河邨天授は、途中、南原村と御幣川村でキリスト教の集会を開き、屋代駅(屋代町)の人からも講演を頼まれ、伝道活動をしながら松代町に向かっている。同十一年十一月の伝道で、松代町に十数人の求道者が生まれていたが、松本総吾が町民に大いに信仰を勧めたので、町内で信仰が盛りあがった。

 これに対する反発も激烈(げきれつ)で、河邨天授が松代に到着したとき、「雷となりてしもがな世をしうるねじけん輩をうちひしぐかな」という猛烈な抗議(こうぎ)の歌を突きつけられたと、『七一雑報』は伝えている。

 松本総吾は明治十二年五月から、まだ教会堂も建っていなかったが信徒が生まれたので、松代仮会堂の牧師に任命された。六月には美以教会の部会(総会)が東京で開かれ、松本が上京した。牧師が不在となり入信間もない信徒のみが残されたわけで、信徒たちは、町内からの反耶蘇(はんやそ)の合唱に心細い思いをしたことが、前記『七一雑報』の記事にみえる。十二年当時、松代町には鵬明(ほうめい)社という結社があり、盛んに演説会を開催していた。松本総吾は毎回この演説会で演説し、耶蘇(やそ)教は邪教(じゃきょう)であると主張する人びとに対決し、いちいち根拠をあげて反対論を展開した。

 また、未信者の人びとも巻きこんで、禁酒会を組織しようと準備をすすめた。呼びかけに応じて十数名の同志が禁酒会名簿に署名捺印(なついん)した。松本総吾は、かつて松本町で松本教会の勧士(かんし)(信徒伝道師)をつとめていたころ、松本町の自由民権論者と親交があった。この下地が鵬明社での演説につながったのである。

 明治十二年十一月になると松本総吾は松代町に居住するようになり、北村源之助の家の二階を会場に、日曜と水曜に集会を開き、三〇人ほどの人が集まるようになった。同年十一月には一〇人の洗礼を受けるものがあり、組長に吉田吉郎右衛門、会計に北村寅之助(源之助兄)が選ばれ組織がつくられた。この十二年十一月をもって美以教会松代教会が成立した。

 篠ノ井の伝道は河邨天授によって明治十一年十月から始められ、美の屋栄二郎方を仮会堂に定めて集会をつづけ、新生の松代美以教会の信徒が伝道を応援し、同十三年には数人の信徒で篠ノ井駅更級公会と教会名を名乗るグループが誕生した。

 多くの城下町では士族中心の伝道がなされたが、松代町では職人・農民などを中心に、一部の知識階級に信徒が広がっていったという特色があった。これは他の城下町ではみられないことで、職人中心の教会の成立であった。