長野県庁機構の拡大と長野町

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明治七年(一八七四)十一月に水内(みのち)郡長野村と同箱清水村が合併して長野町となってから三年後の明治十年、同町の戸数は二二二七戸、人口は八〇七三人であった。大正六年(一九一七)四月に刊行された『今昔(こんじゃく)の長野』は、明治十年代の長野町のようすを、当時出版された「長野町新図」によりながらつぎのように述べている。

 「現在の伊勢町通りは新町で人家が少なくなり」、その東の方にある「田町はわずかな人家に青田は押寄せて居て、其の先きの権堂は秋葉神社で人家無く、一本道路の青田に挟まれた向ふにはチョキンと鶴賀新地が控」えており、また「若松町は其(その)当時新道と称されて新しくできた町で、現在で見るなれば警察署前で建物が消えており、其下の諏訪町通りは桐畑でなくなっていて、すぐ下が又候(またぞろ)青田といった有様だから、今の県(あがた)町も問御所(といごしょ)もあったものではなく、皆目(かいもく)青田で、其青田の中を裾花(すそばな)川から流れ出す上下の両八幡(はちまん)の用水が流れていて、悠(ゆう)々」としたものであった。

 明治十年代の初頭には、このように小規模だった長野町であるが、すでに明治七年十月には、水内郡腰村字袖(そで)長野と同郡長野村字御殿の地にまたがって長野県庁舎が建設されており、県行政がここを中心にして動きはじめていた。


写真1 明治9年長野県職員録 (中沢総二所蔵)

 明治十一年七月に公布され、同十二年から施行された郡区町村編制(へんせい)法・府県会規則・地方税規則の三新法にもとづき、長野県庁の行政組織も一新された(表1)。同年の県庁内の組織は、庶務課・勧業課・租税課・警保課・学務課・出納課の六課と出先機関の郡役所・警察署・警察分署とで構成されていた。その後、国政委任事務や県行政で取り扱う事項の拡大にともない、課や部局が新設されていった。同十九年十月には、長野県庁処務規程が定められ、県の行政組織が大幅に改変された。まず知事官房が設置され、さらに課制は第一部・第二部・収税部・警察本部の部制となってそのなかにそれぞれ課が置かれた。出先機関として、黴毒(ばいどく)病院・種畜(しゅちく)場・測候所などがつぎつぎと設けられていった。明治十二年の県庁官吏(かんり)の人員は、県令・大書記官・各課員を合わせて計一一九人であったが、以上のような行政組織の拡大により、同二十年には各部課に所属する人員は三七六人で約三倍に増加している。


表1 県庁組織の変化

 県庁をふくめた公的諸施設の設置状況は、表2に掲げたとおりである。これら県の行政機関や国の出先機関の設置によって必要とされた上水内(かみみのち)郡長野町周辺の官用地は、明治十二年八月の調査によると、長野県庁が三五二六坪、県製糸場(旭町)が二三三四坪、そしてこの製糸場の西北の地(腰村)にあった懲役(ちょうえき)場が一八〇七坪などとなっていた(表3)。


表2 長野町における公的諸施設の設置 (明治前半)


写真2 長野県権令(のち県令)楢崎寛直 明治14年までつとめる
(県立長野図書館所蔵)


表3 官用地一覧 (明治12年8月調査)

 明治九年十月県庁内に置かれた長野区裁判所は、十二月に善光寺大勧進へ移転した。翌年に松本裁判所長野支庁となり、同十一年には明治天皇の巡幸にあわせて立町の七五〇坪の敷地に庁舎が新築された。同支庁は同十五年一月に長野始審(ししん)裁判所と改称され、また長野治安裁判所が設置されると、長野始審裁判所の新築移転計画がもちあがった。同十六年八月『信濃毎日新聞』(以下『信毎』と略称)は、字上長野の地に二五〇〇坪の購入計画があることを報じている。同裁判所は十九年四月、花咲町に新庁舎を建築して移転した。十一日の開所式当日、開所を祝って荒木佐右衛門・沼田助作・矢島浦太郎ら一三人が発起人となり、三〇〇発の煙火が打ちあげられた。

 電信線の敷設は、明治天皇の巡幸に備えて急ピッチで進められ、明治十一年七月長野・上田間が完成したことにより、東京・長野間の電信が実現している。長野電信分局はさっそく仮局として九月に発足し、十二月には善光寺大本願南角の明照院に局舎が新築された。その後、同二十二年七月長野郵便局に合併され、同年九月には一等局に昇格して、長野郵便電信局と改称した。やや後年になるが、同二十四年七月に局舎を長野町字上後町(のちに西後町と改称)に新築して、大門町から移転した。

 信越線は明治二十一年五月に直江津(上越市)から長野まで開通し、停車場も設けられ直江津までの鉄道利用が可能となった。同年八月、南長野町石堂の北村甚蔵・宮澤三五郎の二人は有志総代として、字石堂町の国道から鉄道の停車場への新しく開かれた道路の両側へ、ガス灯二本を新設したいと県へ願いでて、九月には設置を認可されている。

 明治二十二年四月、町村制の施行により合併して上水内郡長野町となった同郡長野町・腰村・妻科(つましな)村・鶴賀村・茂菅(もすげ)村の戸数・人口の推移をみると、同十二年の戸数・人口は、三七〇五戸・一万四一一八人であった(表4 妻科村は十三年の数値を十二年に置きかえてある)。連合戸長役場の設置となった同十九年には、四四八〇戸・一万八五六四人、二十二年に町村制が施行されたときには、五五九六戸・二万四五二九人へと増加している。十二年から十九年への増加率は、戸数で一二一パーセント、人口で一三一パーセントとなっている。つぎに個々の町村の戸数・人口のそれぞれの増加率を比較すると、合併以前の長野町は十二年から十九年にかけて一〇八パーセント・一一九パーセントであったのに対して、鶴賀村は一四四パーセント・一五八パーセント、また妻科村も十三年から十九年にかけて一四八パーセント・一四四パーセントと、伸び率がはるかに高かった。


写真3 明治12年の長野町の県庁舎周辺図(部分)
(小菅亭所蔵)


表4 長野町域の戸数・人口の推移

 このように明治十年代の長野町周辺は、県の行政機関や国の出先機関の官用地が確保され、道路が開かれるとそれに沿って新しい町が形成される、ということを繰りかえしながら拡大していったのである。

 長野町が政治都市としての機能を高めていったものに、県庁舎とならんで県会議事堂の新築がある。明治十二年三月に第一回通常県会が開かれているが、それは県師範学校を仮議場としたものであった。県会議事堂建設の動きは、同十三年の通常県会ですでに建築費一万円で建築する動議が出されているが、県庁の位置をめぐる対立や分県運動が起こるなかで、なかなか可決決定にいたらなかった。翌十四年には、議事堂建築着手の諮問(しもん)案が提案され、十四年に建築する案と十四、十五年の二年間で費用を蓄積して建築する案、延期する案が出されたが、三案ともに賛成少数で、議事堂建築の議題は消滅した。

 しばらく間をおいた明治十八年の通常県会において、予算審議の議了後に一九人の議員が連署して、議事堂建築費を加えるよう建議した。しかし、建設位置に関してさまざまな思惑があり、一人の差でこの建議は否決された。つづいて、十九年の通常県会で、師範学校の組織改正により、松本にあった師範学校を長野へ移転し、附属小学校を付設することになったため、議事堂として使用することが不可能になる事態となった。そのため県は、二万一九〇〇円余の予算で議事堂新築案を提案した。県会常置委員は、煉瓦(れんが)造りを木造にして建坪を増やし、翌二十年の臨時県会で予算の追加があり、建築費・敷地購入費の総額三万七〇〇〇円余で建築が決定したのである。

 県会議事堂は、明治二十年十二月二十一日に開堂式をおこなったが、翌二十二日未明、原因不明の失火により焼失した。二十三日付の『信毎』は、「議事堂再建の寄附金を有志者に求むるの檄(げき)」を掲載し、地方税による議事堂再建は県民の負担になるので、再建のための有志者寄付金を訴えた。これにこたえて、県知事木梨精一郎の七〇〇円を筆頭に書記官・警部長ら県幹部一一七〇円、各部課の県官二三九二円、上水内郡長森田斐雄(あやお)以下の郡役所員三〇七円、尋常師範学校長浅岡一(はじめ)以下の教職員六四六円などの寄付が寄せられた。また県会議員・新聞記者有志や長野町民、さらには鶴賀遊郭(ゆうかく)の有志者七三人からも多額の寄付金があり、その総額は三万六〇〇〇円余に達した。県会議事堂は二年後の二十二年に同位置に再建されるが、寄付金募集への対応のなかに、県都の長野町民としての政治意識のあらわれをみることができる。


写真4 明治22年再建された県議会議事堂
(明治41年「長野県案内」より)