明治十一年(一八七八)七月に公布された府県会規則にもとづいて、県会を開設する準備は、県会議員の選挙権・被選挙権所有者の姓名・人員の調査などから始められた。選挙権の資格は、満二〇歳以上の男子でその郡区内に本籍があり、府県に地租五円以上を納めるものとされていた。また、被選挙権の資格は、満二五歳以上の男子で府県内に本籍があり、満三年以上居住しその府県に地租一〇円以上を納めるものとされていた。
北第一三大区八小区(埴科(はにしな)郡東寺尾村・柴村)では、県の指示にしたがって明治十一年十二月に選挙権・被選挙権所有者の姓名・地租額を調べて県へ報告している(表5)。選挙権所有者は六四人で、地租の平均額は一一円余であった。いっぽう被選挙権所有者は二〇人で、その地租平均額は一七円余である。
明治十二年一月に県は、三月に通常県会を開くので、二月二十日以前に選挙を実施することや県会議員の郡別の定数を達している。現長野市域をふくんでいる四郡の定数は、更級(さらしな)郡三人・埴科郡二人・上高井郡三人・上水内(かみみのち)郡四人で、県全体では四五人であった。議員定数は、戸数約五千戸・地価約百万円につき二人とし、五〇〇〇戸・一〇〇万円増すごとに一人増やし、最大の郡でも四人とするように定められていた。
上高井郡では明治十二年二月十六日に、須坂町(須坂市)の本立学校で、郡長・郡書記等の出席のもとに選挙が実施された。午前中に投票の受付を済ませ、午後になって開票作業をおこなっている。その結果、小布施(おぶせ)村(小布施町)の樋田正助と小林新兵衛の二人が当選した。その他の郡でも二月中旬までに選挙が実施され、当選者にはそれぞれ当選状(写真5)が交付されている。
第一回通常県会は、三月二十六日から県師範学校の講堂で開かれた。県会議員の任期は四年で、二年ごとにその半数が改選されることになっていたために、第一回選挙の当選者のなかから任期二年の議員が抽選で決められた。明治十二年二月の第一回から同二十一年二月の第六回にいたるまでの、現長野市域が属した四郡の県会議員は延べ五一人であった(表6)。議員を職業別でみると、農業三四人・商業一三人・無職三人・庶業一人で、農業が圧倒的に多かった。しかし、上高井郡は延べ一〇人のうち、商業が七人を占めていて、他の郡とは異なった傾向を示していた。
明治二十二年の町村制の施行によって、上水内郡長野町となる地域からの県会議員は、第一回から第三回選挙までは一人も選出されず、同十七年の第四回選挙で藤沢長次郎・矢島浦太郎、同二十一年の第六回選挙で荻原政太と三人の選出にとどまっていた。
つぎに有権者数の推移をみると、明治十五年の四郡の選挙権所有者は一万一二六二人であったが、同十七年には一万五九〇人、同二十一年には一万五二二人となって減少している(県史近代③一)。埴科郡東寺尾村・柴村の場合、十一年の選挙権・被選挙権所有者はそれぞれ六四人・二〇人であったが、十九年には五五人・一六人となっていてやはり減っている(表7)。明治十九年、東寺尾村・柴村の満二〇歳以上の男女は九三七人で、選挙権所有者は五・九パーセントの割合であった。同様に満二五歳以上の八二〇人に占める被選挙権所有者の割合は二・〇パーセントで、選挙権・被選挙権ともに大きな制限が加えられていた。
県会は、地方税によってまかなわれる経費の予算とその徴収方法について議定することとされていたが、議案はすべて県令から提案されることになっていた。県令はまた、県会が議決したことに関しても、その施行を認めたくないときは、内務卿(ないむきょう)へ具申してその指揮を受けられるようになっていた。さらに、県会の論議が法律・規則に違反すると判断した場合は、県会を中止することもできた。
明治十二年三月から開かれた長野県会では、県庁所在地の長野町に設ける施設として、明治十三年に県立医学校の設立を、十五年に監獄署新築を、十九年に県師範学校の長野移転と校舎新築を、翌二十年には地方測候所の創設をそれぞれ議決している。しかし、明治九年の筑摩県の合県以降、県都が北にかたよっているという理由などから、公的な施設の設立をめぐって、対立がしばしば表面化していた。
県庁移転の建議は、明治十三年の県会において提出され、議題に取りあげられたが欠席者が多く、けっきょく県会が成立せず建議は消滅した。翌十四年にも移庁論が提案されたが、議決するまでにはいたらなかった。二十一年十一月の通常県会でみたび移庁の建議が、北佐久郡・西筑摩郡(木曽郡)選出議員二人から提案された。県庁の位置が北へかたよっているため、県民の不便が大きいので上田か松本のどちらかへ移庁すべきである、というものであった。県会では議論がおおいに沸騰(ふっとう)したが、やはり結論は出なかった。このとき議事堂の外は不穏な状況で、「連日総小会議ヲ開キ之(こ)レガ取締ヲ要求スルノ議ヲ決シテ、警察ノ保護ヲ求」めたほどであった(『長野県会沿革史』全 第一編)。このように合県後の長野県においては、師範学校・中学校をはじめ議事堂の建設や県庁の位置をめぐる南北間の地域対立が起こってきていたのである。