明治十年(一八七七)二月、警察出張所・巡査屯所(とんしょ)が警察署・分署と改称され、県下に九署四七分署が置かれたが、地方税規則の実施にともない、同十二年六月には八署三〇分署に統廃合された。現長野市域では、上水内郡長野町の長野警察署と埴科郡松代町の松代分署がそのまま存続し、更級郡田野口村の田野口分署、同郡青木島村の青木島分署、上水内郡徳間村の徳間分署、上高井郡井上村の井上分署が廃止され、新たに更級郡塩崎村に塩崎分署、上高井郡須坂町に須坂分署が設置された。
警察署・分署の管轄(かんかつ)した町村・人口数をみると、長野警察署が六三ヵ町村・六万二七六六人で最大となっており、もっとも少ないのは松代分署の一三ヵ町村・二万一七六九人であった(表8)。県が設置した以外に、町村の請願により分署・交番所を設けることもできたが、その維持にかかる費用は町村の協議費から支出されることになっていた。更級郡真島村では、明治十三年四月に小島田(おしまだ)交番所の修繕費として約八円、また同年九月に交番所諸費として五円余を協議費から支出している。請願による分署の設置は同十四年をもって廃止になったが、このときの改定で十二年にいったん廃止になっていた田野口分署が復活している。なお交番所の設置と巡査の特別配置は引きつづき請願が認められていた。
明治十二年に置かれた塩崎分署は、同十四年十二月更級郡今井村に移され今井分署と改称した。地域の有志者の奔走(ほんそう)により分署の庁舎が新築され、同十六年十月七日に開庁している。ここに臨席した大野誠県令は、祝辞のなかで「警察ノ要タル社会ノ安寧(あんねい)ヲ保チ、人民ヲシテ各其堵(おのおのそのと)ヲ安(やす)ンゼシムルニアリ」と述べている(『信毎』)。松代分署が管轄の町村に対しておこなった巡回活動をみると、埴科郡東寺尾村の場合、明治十三年四月に分署の巡査一人ないし二人が計六回村内を巡視している。この年の巡視回数は、七月が最多で七回を数え、十一月、十二月が最少で各一回であった。不定期ではあったが、このように管轄下の町村の見回りをおこなっていたのである。
警察署・分署の明治十六年度の巡査配置は、長野警察署が四五人でいちばん多く、以下須坂分署・一一人、松代分署・九人、今井分署・九人、田野口分署・四人となっており、この人員で警察業務を担当していた。同年七月、県は行政警察規則の趣旨にもとづいて、戸口調査仮規則・心得を制定し九月一日から実施した。警察署・分署の非番の巡査が原則として部内を月二回巡視し、町村民の族籍(ぞくせき)・身分・職業・氏名・年齢などを調べて、戸口調査簿に記載する、というものであった。しかし、戸口調査心得では、巡査に受けもち区内の町村民の素行・挙動の監視を義務づけており、また、区内住民を官吏・教員・教導職・銀行員等(甲)、学舎・旅舎(りょしゃ)・下宿屋・立場(たてば)茶屋・雇人受宿・貧民住居場所・遊郭(ゆうかく)等(乙)、除刑者・被監視人・博徒(ばくと)・私代書人等(丙)の三種に区別し、戸口調査簿に甲乙丙と朱記して掌握(しょうあく)するよう求めていた。九月から調査が実施されたのは、市街地ならびに遊郭・温泉などの人口密集地や人の出入りの多い場所に限られていたが、人々の生活のなかへ警察の監視がいっそう入りこんでくることになった。なお、全戸への実施は同二十一年四月からであった。
明治十九年五月に交番所が派出所となった。また七月には勅令(ちょくれい)により、各郡区に一警察署を置くことが定められ翌二十年一月から施行された。これにより従来の六警察署から一三警察署となったが、上高井・更級・南安曇(みなみあずみ)郡の三郡には警察署が設置されなかった。現長野市域では、長野警察署・須坂分署・今井分署・松代分署が置かれた。つぎに派出所をみると、南長野派出所は同月に権堂へ移されており、このときに横沢と淀ヶ橋にも派出所が設けられた。五月に横沢は桜枝町派出所と改称されたが、同年九月にこれら三派出所はいずれも廃止となっている。そのいっぽうで、同月には七二会(なにあい)派出所と綿内派出所が新たに設置されている。
明治二十年四月五日、六日の両日にわたって東京の『毎日新聞』は、三月二十八日夜の上水内郡鶴賀遊郭の妓夫(ぎゆう)(客引き)死亡事件を、巡査による殴殺(おうさつ)の疑いがあると報じている。この事件は二十余人の妓夫が、客に対して不正当の行為をしたとされて、数人の巡査によって拘引(こういん)されていく最中に権堂小路で起こった。開業医の検死では脳震盪(のうしんとう)による死亡という診断であったが、長野軽罪裁判所に告発があり検死のやり直しとなった。三月三十一日、長野軽罪裁判所検事補・長野警察署長・告発人三人・開業医等の立ち会いのもと、長野公立病院長ともう一人の医師の執刀で解剖がおこなわれた。その結果は殴打による死であるとの診断であった。
県のまとめによる明治十九年度の巡査雇の処罰の内容は、罰金一五五人・呵責(かしゃく)五人・免職七九人となっている。また、辞職総数は一一一人で、そのうちの五八人は諭旨(ゆし)解職であった。取り締まり業務が拡大するなかで、町村民との摩擦も発生し、巡査の資質も問われていたのである。
明治二十年九月、警察署・分署・派出所の管轄区域をいくつかの管区に分け、巡査が各管区を担当するようにした(表9)。翌二十一年五月、管区は警邏(けいら)受持区と改められ、警察署・分署所在地の町村を市街受持区、それ以外の町村を郷村受持区とした(表9)。一受持区の戸数は五〇〇戸以上八〇〇戸以下で、原則として一人の巡査が受けもち、市街受持区では区内の中央に常住し、郷村受持区では警察署・分署・派出所または巡査在勤所の所在地に常住することになっていた。この改正にともない、翌六月に外勤巡査勤務法・心得が改定され、警邏(けいら)方法・戸口調査方法・勤務時間等が詳細に規定された。また町村民との接触が拡大していくことによる巡査の違法行為を防ぐために、同月巡査懲罰内規も改定された。
これらの改定より少し以前の同年一月、堀長野警察署長は長野町ほか三ヵ町村の石油販売人を警察署へ集めて、販売や取り扱い上の注意をしている。翌二月には、部内を巡回し町村民を一〇〇人から二〇〇人ほど招集し、警察業務の趣旨や警察官の職務について説明し、さらに法律規則上における町村民の義務について注意をあたえるなどの啓蒙(けいもう)活動をしていることが『信毎』に掲載されている。警察の活動が町村民の生活へ浸透しはじめていくなかで、長野警察署が明治二十二年三月分に取り扱った事件の件数は、表10に掲げたとおりであるが、その主なものは、窃盗七一戸・火災五戸・賭博犯処分一二人・同監視八四人・就捕犯罪人一〇六人などであった。
明治十三年七月、はじめての刑事訴訟法である治罪法が成立すると、それにともない裁判所制度も改正された。翌十四年十月、それまでの長野区裁判所にかわって、長野町には長野始審(ししん)裁判所と長野治安(ちあん)裁判所が設置されることになり、十五年一月から施行された。刑事事件に関しては、長野始審裁判所は軽罪を扱い、上下水内郡・上下高井郡・更級郡と埴科郡の一部を管轄した。また、長野治安裁判所は始審裁判所内に置かれ、刑事上の軽微な犯罪(違警罪(いけいざい)で処罰は科料・拘留(こうりゅう)等)を扱い、上高井郡と上水内・更級・埴科郡の一部を管轄した。両裁判所とも一審の裁判所で東京控訴裁判所に属していた。重罪事件を扱ったのは重罪裁判所で、十五年十二月に長野町に設置された。第一審の裁判は三ヵ月ごとに開かれ、期間・裁判官等は重罪裁判所からの通知を受けて、県知事が告示した。十八年の場合は、第一期の裁判を二月十日から長野始審裁判所で開庁している。
このころの民事事件で、用水の分水をめぐる訴訟が長野始審裁判所にあった。上水内郡西和田・東和田・北尾張部・南堀・北堀村が原告となり、同郡小島・柳原・村山・長沼大町・長沼穂保(ほやす)・津野・金箱・富竹村を相手にした訴えであったが、一審で決着かつかず東京控訴裁判所まで判決が持ちこまれた。明治十五年十月に、原告が一方的に用水をせき止める板を高くして、分水の方法を変えようとするのは適当ではなく、申し立ては認められない、との判決が下されている。
明治十六年一月、長野県の始審裁判所は長野町が本庁となり、松本・上田が支庁となった。元老院の審議官が同年七月から八月にかけて県内の裁判所の状況を巡察し、長野始審裁判所本庁・同治安裁判所は訴訟件数が少なく、多忙ではないと報告している。また、刑事関係では窃盗(せっとう)・詐欺(さぎ)が、民事関係では金銭貸借に関する訴訟が多いことが述べられている。なお、長野始審裁判所本庁は十九年四月に花咲町に庁舎を新築して立町から移転し、同月十一日に盛大に開所式をおこなった。
長野市域には、既決囚を収容する長野監獄第一署が上水内郡腰村に、未決囚を収容する長野監獄第二署が同郡三輪村に置かれていた。明治十三年十一月、政府は西南戦争後の緊縮財政の一環として、それまで国庫負担であった監獄費を、翌年一月から地方税支出とすることを決定した。県内の監獄を国から引きついだ県は、同年六月長野監獄第一署を監獄本署、長野監獄第二署を長野監獄署とそれぞれ改めた。
これら両監獄署に収容されていた一日平均の囚人数は、明治十五年に監獄本署二〇〇人、長野監獄署五一人であったが、十六年には三三七人および一一一人へとそれぞれ増加している。両署が手狭となり施設・設備も不備であることから、監獄本署を新築し長野監獄署を監獄本署に合併する、という県の提案を受けて、県会は十五年度の予算に監獄本署の新築費四万円余を計上した。
新築落成の監獄本署の開署式は、十六年十二月二十六日におこなわれた。この開署式には「近在近郷ノ老若男女ハ節季ノ買物ヲ兼テ来集」し、「左(さ)ナガラ雲霞(うんか)ノ如」きありさまで、数千人を数えたという(『信毎』)。敷地は約六千九百坪あり、建物の中心の監倉は三階建てで監房部分は一六五坪となっており、懲役場は監房二〇〇坪、工場三二八坪であった。このほかに留置場・懲治場などの施設も設けられていた。
明治十六年十二月三十一日現在、監獄本署には男三九八人・女二〇人、計四一八人の既決囚が在監していた。県は翌年、在監人へ貸与する被服・寝具を一二六円余の費用で新調したが、綿入長着・短着・袷(あわせ)、単襦袢(ひとえじゅばん)などはすべて柿色に統一されていた。監獄本署は同十九年十月に長野監獄となった。ここに収監されている未決囚への、二十一年における差し入れ品をみると、いちばん多いのは食料で、魚肉一九一四件、鶏卵一六二六件、牛肉一三五四件となっている。つづいて用紙七二三件、衣類六九五件で、書籍類は一二一件であった。
県内の監獄では、在監人に対して作業を課しているが、明治十九年の場合、藁(わら)・麻・竹などを材料にして製品を作らせたり、桶(おけ)・指物(さしもの)などを製造させたりしている。また、監獄の外の作業については、前年六月に内務卿(ないむきょう)から県令へあてて、最近、看守・押丁(おうてい)に暴行を加え逃走するものが多いので、そのさいは警戒を厳重にするよう訓示があった。十九年には一六五人が監獄の外の作業に従事している。翌二十年十一月十七日、長野監獄の看守長が、看守・押丁一六人とともに囚人七〇人を率いて更級郡篠ノ井駅へ、また別の看守長はやはり看守・押丁一四人とともに囚人四〇人を率いて小県(ちいさがた)郡上田町へ、鉄道工事のために出張したことが新聞に報じられている。鉄道敷設工事等に囚人の労働力が組みこまれていたのである。