明治十一年(一八七八)七月二十二日郡区町村編制法が公布され、それまでの大区にかわって郡が行政区画として編制されることになった。県は九月、庁内に郡区町村改正掛を置き編制の準備に取りかかった。翌十月にはその編制方法を諮問(しもん)するための会議に出席する総代人を各大区から県会議員選挙の方法などにもとづいて公選するよう達している。
十一月五日から始まった諮問会議に県が提出した下問(かもん)案は、郡の編制、地籍組みかえ、郡役所の位置からなっていた。郡の編制は従来の一〇郡のうち、小県・諏訪(すわ)・更級・埴科の四郡はそのままとし、佐久・伊那・筑摩(ちくま)・安曇(あずみ)・高井・水内の六郡をそれぞれ二分して、県全体を一六郡にするというものであった。現長野市域の各町村は、上水内郡・上高井郡と更級郡・埴科郡の四郡にそれぞれ所属していた。つぎに地籍の組みかえでは、更級郡西寺尾村を埴科郡へ、同郡大豆島(まめじま)・川合新田・信級(のぶしな)の三ヵ村を上水内郡へ、同郡牛島・牧島の二ヵ村を上高井郡へそれぞれ編入する案であった。
これに対して会議では、まず郡の編制に関して、更級・埴科の両郡は地勢が連続していることや合併しても戸口などが多すぎることはないので一つの郡とすること、高井郡は延徳沖(えんとくおき)で上下に分けていたが、これを高社(こうしゃ)山で分け、下高井郡は人口・反別などが少なくなるのでこれを下水内郡とあわせることを答申している。地籍の組みかえでは、信級村の上水内郡への編入には反対で、あとは県案どおりとした。
郡役所の位置については、埴科郡では屋代駅が郡の中央にあり市街地を形成していることを理由にあげて松代町から変えたうえで、更級・埴科郡を合併した場合には、更級郡塩崎村篠ノ井駅が交通の要衝(ようしょう)であるのでここが適当であることを答申している。上高井郡では郡境を高社山へ変更すると、須坂町では南にかたよりすぎるので小布施(おぶせ)村が妥当であるとしている。諮問会議に提案された県案と答申に示された郡別の戸口・町村数・郡役所位置は表11に掲げたとおりである。
この大区総代人の諮問会議は、傍聴が許されず非公開であったが、『長野新聞』は明治十一年十一月十二日「郡区町村編制法諮問ノ為メ出県セル各大区総代人ノ景況」と題した記事で、今回の区画改正の重要性を説いたうえで、総代人のほとんどが現在の区長・戸長のなかから選出されていることに対し、県の諮問に十分こたえられるかどうか疑問を投げかけていた。
諮問会議はさきにふれたような内容を答申して、十一月十八日に終了した。十二月十九日、県は、郡界や郡役所の位置の変更を求める願い出がときどきあるが、そのような心得違いのものが出ないよう区長・戸長にあてて達している。諮問案の内容が総代人によってもたらされたことにより、町村民からさまざまな反応が出されたことを物語っていた。
これより少し前の明治十一年十二月十日、内務省にあてて県は郡の区画編制について認可をうかがっているが、郡編制については、下問案どおりに更級・埴科郡は二郡とし、上高井郡と下高井郡の郡界も原案どおりであった。郡役所の位置は更級郡は塩崎村篠ノ井駅、埴科郡は屋代村で答申の位置が認められていた。地籍組みかえの村々は、このときは従来どおりのままであったが、同年七月牛島村を上高井郡へ、大豆島・川合新田村を上水内郡へ編入することを達している。
明治十二年一月四日、県は一六郡の名称と郡役所位置・所属町村などを制定し県下に布達した(表12)。戸数・人口・町村数ともに上水内郡が最大で、それぞれ二万二七九八戸・一〇万五七五三人・一〇四町村であった。なお更級郡と埴科郡の郡役所は仮位置とされていた。
同日付けの県達で、郡役所の開設は一月二十一日とされ、それまでの大区会所と区長・学区取締は二十日限りで廃止されたのである。