明治十二年(一八七九)一月四日、県は一六郡の名称・郡役所位置・所属町村を定め県下に布達した。これにともない、それまで大区会所で取り扱ってきた事務は、郡役所へ引きつがれることになった。県は一月六日に、九項からなる「事務受渡(うけわたし)心得」を示し、具体的な手続きについて説明している。その主な項目は、取り扱ってきた事務で決着していないものの今後の見通し、徴収してきた諸税の皆納・未納を明らかにすること、戸籍などすべての諸帳簿を整理して目録を作成することなどであった。大区会所の廃止は一月二十日で、事務の整理はこの日から一五日以内に終了するように決められていた。
大区会所の廃止をうけて、郡役所の設置も始まった。県の位置指定により表13のように、上水内郡は長野町、更級郡は塩崎村、埴科郡は屋代村、上高井郡は須坂町にそれぞれ設置された。ただし、更級・埴科の両郡は仮位置であった。更級郡では明治十二年一月二十一日に、塩崎村篠ノ井の欣浄寺を借りうけて開所している。上水内郡の場合も善光寺大勧進の一部を借用しており、寺院や民家を借用したり、大区会所の建物をそのまま引きついだりしての出発であった。このように郡役所は仮住まいだったため、短期間で場所を移すことが多かった。大区会所の事務も郡役所へ順次引きつがれ、その役割を終了していった。
郡編制の実施と同時に、郡政を担当する郡の吏員(りいん)の任命も始まった。郡編制初期の現長野市域に関係する四郡の郡長および郡書記は表15に掲げたとおりである。郡長は、上水内郡の奥村忠充が兵庫県出身の士族、更級郡の吉松集躬が飯山、埴科郡の横田数馬が松代、上高井郡の清須勝祥が須坂と長野県出身の士族であり、四郡とも士族出身者が占めた。つぎにその主な経歴をみると、官吏・区裁判所長・警部となっており、いずれもそれまでの県の行政・司法の担当者であった。埴科郡の横田数馬と上高井郡の清須勝祥の任命がいちばん早く、同年一月四日、つぎは上水内郡の奥村忠充の一月十四日、更級郡の吉松集躬は一月二十九日であった。
明治十年代に四郡で就任した郡長をみると表14のようであり、上高井郡は清須勝祥が継続して郡長をつとめているが、他の三郡では、任期が一~三年前後と比較的短期間のものが多かった。また族籍は、明治十五年六月に埴科郡長となった小県郡塩尻村(上田市)出身の中島精一と、同十六年十二月に同郡長となった上水内郡村山村(長野市)出身の小坂善之助が平民で、あとはすべて士族であった。この中島の場合は、更級郡長と兼任であり、これ以後につづく渡辺猶人・小坂善之助・中島精一(再任)も同様であった。
郡長のもとにあって、郡政を担当したのは郡書記である。郡長同様に郡政初期の郡書記の主な経歴をみると、県の吏員として地方行政にかかわってきたものや、区長・副区長・戸長等、直接民衆と接する立場にいたものがそのほとんどであった。これまでの地方行政の担当者が、引きつづき郡政を推進していったことがわかる。
上水内郡の場合、初期の郡書記七人のうち、平民は二人で士族が五人であった。平民の二人は南長池村の宮沢助太郎と七二会(なにあい)村の山本運之丞であった。宮沢は、第五三区副区長・第一四中学区学区取締・北第二二大区臨時区会議長などを歴任している。宮沢については副区長時代に、「能(よ)くその職務を励精し、下々を憫(あわ)れむの気性なりしゆえ、最も人望を得」ており、郡区の改正でいったん職を離れたが、郡書記に任命されるとその就任を歓迎する報告が『長野新聞』に寄せられている。また、山本は明治五年六月、県庁建築のさいの営繕・伐木取扱、同八年六月師範講習所営繕事務取扱、同年十一月地租改正郡村総代をつとめている。いっぽう士族の五人は、樋口兼利のように県の一〇等警部だったものや、原昌誠のように宮内省出仕を経て教員となったもの、副戸長経験者など、経歴はさまざまであるが、そのほとんどが旧松代藩出身者であった。明治十二年から始まった郡政において、郡政を担当する郡書記が周辺部の農山村や旧松代藩士族の出身者であり、善光寺を中心とした門前町の豪商層からは一人も加わっていなかった。
明治十二年一月に決定をみた郡役所の位置のうち、仮位置であった埴科郡は同十五年八月、同郡屋代町に正式に決定された。しかしそのいっぽうで、明治十年代には、郡の合併や郡を連合して連合郡役所を設置するという論議が、県会を中心に活発におこなわれた。
明治十四年五月、県会は郡役所の合併を建議することに決定し、委員が作成した建議案を討議している。郡の区画改正案は、現長野市域では、①埴科・更級の両郡を連合して一郡役所を置く。②下高井郡のうち、土地の状況によりその一部を上高井郡に編入し、下高井・下水内の両郡を連合して一郡役所を置く。ただし、場合によっては上高井・下高井郡を合併してもよい、とされていた。地方税の費目の増加と物価の高騰により、県の支出が前年度に比べ一〇万円余増額となってしまうことが、郡役所合併および郡区画改正の理由であった。
その後、松方デフレの影響が深刻になっていた明治十八年四月、県会は内務卿(ないむきょう)山県有朋・県令木梨精一郎あてに郡役所統合の建議書を提出した。地方税による支出が当初の約二倍になっているにもかかわらず、物価が低迷し県民が税負担に耐えられない状況であり、また、連合戸長役場設置の実施により、郡役所の事務が従来より減少することが予想されるので、郡役所を一六から一一に統合しようというものであった。郡役所間の距離が約十六キロメートル以内が対象とされ、南佐久・北佐久郡、東筑摩・南安曇郡、更級・埴科郡、上高井・上水内郡、下高井・下水内郡の統合があげられていた。
いずれの場合もその実現をみなかったが、ときの経済状況や住民の税負担の状態などと密接な関係をもちながら、郡役所の統合や郡の区画改正が論議されていたのである。