郡役所の設置・開庁にともない、郡長が取り扱う事務の内容や方法も徐々に定められていった。明治十二年(一八七九)一月、まず、国税・地方税の徴収、徴兵の取り調べ以下小学校の学資金にいたる一〇項目の郡長処分条項が示された。つづいて、県令から郡長へ特別に委任するものとして、戸籍の整理、棄児(すてご)の取り扱い、国民軍名簿の編制、社寺の修繕願い、学齢児童調査など三八項目が達せられた。
同年一月から三月にかけて、国税の徴収や諸商売の鑑札下付の取り扱い手続き、郡長・郡書記の俸給・旅費に関する規定、特別委任条項の取り扱い心得などが県から達せられている。特別委任条項の取り扱い心得の戸籍整理の項では、郡内の町村戸長に命じて、毎年一月一日の現在人員を調べさせ、戸籍の統計を差しださせたうえで、郡全体の統計表を一月末日までに県へ提出するようにされていた。
このような事務は、郡長のもとに置かれた郡書記や筆生(ひっせい)の郡吏員(りいん)が分担して処理した。現長野市域の四郡についてみると、徴税・庶務・会計・勧業・衛生・学校の六つの係があり、郡書記がいくつかの係を兼任して担当していた(表16)。郡書記の人数は上水内郡が一一人でいちばん多く、以下更級・埴科・上高井の順になっている。
明治十三年十月、県令が県下の各郡を巡視したさい、各郡長は郡政に関する報告書類を上申している。上水内郡では、郡書記人名・係分担、郡所属町村、郡吏員の勤務一覧表、町村会を開設した町村名、郡役所が定めた諸規則、郡内の学事概況、文書処理件数などを報告している。
また、埴科郡長滝沢久武は、郡役所開庁以来、取り扱ってきた事務について、職制によるもの三〇一件、特別委任によるもの八五八七件、奥書経由にかかわるもの一九五九件で、明治十三年は前年に比べて、処理件数が倍増したが、これは郡役所の設置により、町村人民が便利になったことを示すものであると述べている。表17により上高井郡の受付件数をみると、県あて一四九三件、各郡役所あて一二九件で、このほかに裁判所・警察署・大蔵省・鎮台(ちんだい)関係があり、さらに、郡内の住民からの諸願い・伺い・届けが七四〇三件あり、郡役所の行政が住民の生活とさまざまなかかわりをもつようになってきた。上水内郡でも同様に、人民関係の処理件数が、約二万八千件余と多くなっている。
郡役所関係の郡吏員給料・旅費・庁中諸費は、明治十二年二月から実施されたため、それまでの大区会所の実費に、地租改正にともなう地券下付の事務が郡長取り扱いとなったことにより、それに要する費用を加えたものとされ、県会の議決を経て決定された。翌十三年度は前年度をやや上回る額が執行されている。
明治十三年度の埴科郡役所の経費定額・実支出額を表18でみると、経費の受け高は二五五九円であったのにたいして、支払い高は二五〇〇円弱と下回っていた。支払い高の内訳は、郡長・郡書記・筆生の俸給が六一・九パーセントと、諸手当を含めた人件費が大部分を占めていた。備品・消耗・他の費用には、庁舎借り入れ費・臨時家屋借り入れ費が五一円あり、開設当初の郡役所が借家住まいであったことがわかる。
この後、各郡役所の経費は、明治十五年度までは増加していくが、十六年度に入ると松方デフレの影響を受け減額されている。上高井郡の十五年度から十七年度までの実支出高の推移は表19のようであり、指数で比較すると、十五年度の一〇〇から十七年度は八九・三と一〇ポイント以上の減額となっている。
明治十六年十月、県は郡長を招集し郡長会議を開催した。そのさい一八八項目におよぶ諮問(しもん)事項を提出して郡長に答申させている(表20)。これによれば戸長の職務に関することや町村会・郡役所取り扱い事務・租税徴収などに関することがその主なものであった。
上水内郡長船越重舒(しげのぶ)は、「租税怠納(たいのう)の理由および怠納を防ぐ方法」の項で、物価の低落と金融の閉塞(へいそく)が怠納の主な原因であるとして、怠納を防ぐのはきわめて至難であると答えている。また、上高井郡長清須勝祥は同じ問いに対して、貧窮(ひんきゅう)や営業に失敗することが原因であると述べており、不況が地域社会のなかへ暗い影を落としている状況をうかがうことができる。
「郡役所経費金の過不足」の項に関する答申で、上高井郡長は、明治十六年度は消耗品費、書籍費、布告・布達郵便税で一二一円が不足であると報告している。更級・埴科郡長中島精一は同じ項目で、郡役所の事務は租税取り扱い法の改正などにより増加の一途をたどり、つねに経費は不足していることを訴えている。同年郡長の給料・旅費は国庫支弁に移されたが、貧弱な財政規模のもとで、十年代の郡行政が運営されていたのである。
郡長が取り扱い処理すべき事項に関して、郡長や郡書記は取り調べや町村の督励(とくれい)のため、たびたび郡下を巡回している。上高井郡書記の岡村覚左衛門の場合、明治十七年六月には試験の監督のために郡内の学校に出張し、同年八月には徴兵に相当するものの調査と下士官養成機関である教導団への志願者の募集のため、やはり郡内の巡回に出かけている。また、翌十八年には郡下の主要な道路・橋梁(きょうりょう)の調査にも出張している。
上水内郡書記の有賀盈重(みつしげ)は郡長の命により、明治十七年十月に学齢児童の就学を督責(とくせき)するために、郡下を巡回した。彼は就学状況について取り調べ、未就学児童の保護者に対して、督責を加えている。このほかに学資金・校舎・授業法・学務委員などについても取り調べて郡長に報告している。郡役所ではこの報告の内容を郡内の小学校に達して、郡内の学事についての実態や課題の理解をはかっていた。