明治十二年(一八七九)一月、長野県は郡区町村編制(へんせい)法にもとづいて町村を編制し、県下に達した。このとき、現長野市域に属する町村数は、上水内郡五四・更級郡四一・埴科郡八・上高井郡四で計一〇七ヵ町村であった(表21)。各町村は戸長(こちょう)役場ごとの行政区域となり、独立した行政の単位として出発するための諸準備が進められていった。まず、町村の理事者である戸長は、町村民の選挙によって選ばれることになった。同年四月に制定された戸長公選規則によれば、戸長の被選挙権人は、満二〇歳以上の男子でその町村に本籍・住居を定め、その町村において地租を納めるものとされた。また、選挙人は、満二〇歳以上の男子の戸主でその町村に本籍・住所を定めるものとされていた。戸長の任期は三年であり、選挙の期日は郡長が決めることになっていた。選挙によって過半数の票を得たものがない場合は、高位のもの三人を選び郡長の意見を添えて県庁へ具申し、県が決定することになっていた。
明治十二年五月には、六月三十日限りで大区・小区を廃止し正・副戸長および町村用掛(ようがかり)・代議人を解職し、七月一日から戸長役場を開設し新任戸長が町村の事務を取り扱うことが達せられた。戸長の職務を定めた戸長職務条例は六月に達せられているが、戸長は「行政事務ニ従事スルト、其町村ノ理事タルト二様ノ性質」があるものとされ、町村固有の行政事務のほかに国・県等の多大な委任事務の処理にあたることが義務づけられていた。町村の理事者としての戸長には、町村経費の予算とその賦課(ふか)法、町村共有物の取り扱い、金穀公借(きんこくこうしゃく)、町村限りの道路・橋梁(きょうりょう)・堤防・用悪水路の修繕の費用に関する予算と賦課法などについて議案を作成して、町村会に提案する権限があたえられた。戸長役場には筆生(ひっせい)が置かれ、戸長にしたがって行政事務の処理に従事した。その定員は約百五十戸に一人とされていた。戸長・筆生の給料・旅費および職務取扱諸費は地方税から支出されていたので、戸長は町村の理事者でありながら、地方官吏(かんり)の性格もあわせてもつものとなっていた。
明治十六年十二月、上水内郡鶴賀村戸長太田喜左衛門は、それまでの役場庁舎が狭くなったので、独立した借家への移転届けを提出している。役場庁舎の大きさは、事務取り扱い所が七坪半、控え所が五坪、それに湯呑(のみ)所・厠(かわや)が付属していた。戸長役場の庁舎は、さきにふれた戸長職務条例で、町村内の適切な場所を選んで設置するようになっていたが、不可能な小村などでは、公私の区別をつけるために別室という条件をつけて、戸長の自宅に設けることが認められていたので、多くの場合は戸長の自宅に置かれ、戸長が交替するたびに移転を繰りかえしていた。
戸長公選となり、明治十五年から十七年にかけて町村民から選出された現長野市域の戸長を所有地価別にみると、合計一一八人のうち三〇〇円以上五〇〇円未満が三〇人(二五・四パーセント)でいちばん多く、ついで、五〇〇円以上一〇〇〇円未満の二四人(二〇・三パーセント)となっている(表22)。しかし、一〇〇〇円以上二〇〇〇円未満と二〇〇〇円以上を合わせると三九人(三三・一パーセント)となり、また五〇〇円以上では五三・四パーセントを占めており、おもに地主層から選出されていたのである。
上水内郡長野町では、町会の議決により約百戸につき一人のめどで伍長総代を選出することを決めた。この決議にもとづいて岩石(がんぜき)町以下一四の町から選出された一九人の伍長総代は、明治十二年十二月、連名で請書(うけしょ)を提出した。そのなかで、布告・布達・口達等の趣旨を残らず町民に通達することや、役場から連絡があればすぐ出向くことなどを述べていて、行政の末端をになう役目に位置づけられていた。また、同十六年四月同郡南長野町戸長荻原政太と総代三人は、町会の決議にもとづいて布告の掲示場を二ヵ所増設することを県へ願いでている。場所は妻科(つましな)本郷の里道ぎわの庚申(こうしん)塚のそばと諏訪町の里道ぎわでいずれも官有地であった。増設は同月に認可された。このように戸長役場の発足当初には、上意下達の施策が着手される事例がみられた。
明治十五年五月、上水内郡長野町の戸長に就任した中沢与左衛門は、同年八月、事務引継ぎ上の問題点の処置に関し三項目にわたって県へ伺いでている。それらは、①町会の議決をへないで前戸長名義による負債は、前戸長の負債とみなしてもよいか、②学事に関する負債の処理は学務委員の担当としてよいかどうか。③地租・地方税・協議費の滞納に対して、前戸長が借り入れをして立てかえた分が一七〇〇円余あり、滞納者の公売処分をしてもよいか、であった。また、同十六年七月二十八日付けの『信毎』は、南長野町の戸長役場では事務多端のため、前戸長のときから事務処理が滞(とどこお)っていたが、戸長荻原政太以下筆生が午前八時から暗くなるまで処理にあたったため、やっと正常になったという記事を掲載している。同年七月から八月にかけて長野県を視察した元老院議官は、戸長の事務の取り扱い状況について、「概シテ其任ニ耐フル者稀(まれ)ニシテ、法律規則ニ熟了スルモノナシ」とし、戸長に人材が乏しいのは、才能より家柄によって選ぶこと、事務が多く給料が少ないこと、軽々しく議論を好むものが多い場所ではこれに刺激されるのがわずらわしいこと、であると報告している。明治十五年から十七年にかけて、上水内郡下の各町村に就任した戸長七三人の平均在任期間は、約一年二ヵ月であった。六六ヵ町村のうち、交代がなかったのは一九ヵ町村で、あとの四七ヵ町村では交代があった。この間の一村における交代の最多は四人であり、石渡(いしわた)村ほか三ヵ村でおこなわれている。国、県からの委任を含めた大量な行政事務、その対応に必要な行政経験・法律的知識の不足、さらに低額な俸給が拍車をかけて、戸長のひんぱんな交代を引きおこしていたのである。
上水内郡長中島精一は、明治十七年二月、同郡若里村で戸長がやめてかわりの戸長の選挙を実施しなければならないが、役場の筆生が全員病気で選挙の手続きをするものがいない。そこで、担当の郡書記を派遣して選挙を実施してよいかどうかを県へ伺っている。県の指令は、①郡役所において適切なものを筆生に選んで選挙を取り扱わせること、②それが不可能な場合は伺いのとおり、であった。
明治十七年六月上水内郡吉田村の長田真之助は、政府の戸長公選規則の改正にさいし、長野県令大野誠にあて建言を提出した。そのなかで、「一国一県ノ富強ハ人民ニアリ、人民ヲ訓戒奨励シテ物産ヲ起シ事務整頓(せいとん)スル」ためには戸長に適切な人物を得なければならない。しかし、財産・門閥(もんばつ)で選んだり、小村のために適任者が見つからないのが実情である。そこで、町村を連合して戸長役場の管轄区域を拡大し、さらに官選戸長とすれば適任者を得ることができる、と述べている。
すでに明治十四年七月、町村の状況によって戸長の選挙の施行が困難な場合に限り、県で選任することが達せられており、官選戸長の道が開かれていた。同十七年六月戸長公選規則が改正されているが、それによれば、町村では戸長選挙で五人を選ぶこととされた。そして、その五人について郡長が意見を付けて、県令へ具申することになっていて、戸長の選出に関し県・郡の意向が強く反映できるようになっていた。県が規則を改正する直前の同年五月、政府は区町村会法を改め、戸長の官選と戸長役場の管轄区域の拡大を決めている。これを受けて県は翌十八年二月、連合町村の戸長配置区域と役場位置ならびに新任の官選戸長を県下に達した。更級郡赤田村は田野口村ほか五ヵ村の連合となったため、同村の前戸長は、同年三月に諸帳簿・器具・経費明細帳等を連合戸長役場へ引き渡している。このようにして明治十二年七月に開設された戸長役場は廃止されていった。
明治十二年二月、長野県は大区小区制のもとで合併した町村の分離復旧の取り扱い方について内務卿(ないむきょう)へ伺いでた。合県以前の旧長野県では、近隣や村境が入りくんでいる町村等の合併が主であったので、旧来の町村八三七から五二八へと減少はゆるやかであった。いっぽう小区の区域に合わせて町村合併を実施した筑摩(ちくま)県では、旧来の町村八九三が一七一へと激減していた。このような背景があって、町村を編制することが定められたことにより、明治十二年以降になると旧制度下でおこなわれた町村の合併に対して、分離復旧を願いでる町村が急増してきたのである。県の伺いに対し、内務卿からはやむをえないものについては取り調べて申しでるようにとの回答があった。
明治十二年から同十七年にかけて、現長野市域で分離復旧が認められたのは八ヵ村で、分離後は二二ヵ村になっている。いっぽう、この間に合併して新しい町村を形成したものは皆無であった。上水内郡吉田村は九年五月に、押鐘(おしかね)村・吉田村・中越村・太田村の四村の合併により成立していたが、十四年八月戸長長田甚十郎以下旧四ヵ村の総代の連署をもって旧村への分離復旧を県へ願いでた。その理由は、①押鐘・吉田は北国街道沿いで人家が密集し、長野町に市街が接続していて主に商業を営んでいる、②中越・太田は村の東南にかたより、農業中心である、③したがって人情がおおいに異なり、そのためか学区も異なっている、④役場は旧吉田村にあるが、中越・太田からは遠く離れている、というものであった。郡長も分離復旧に賛成であり、内務卿の認可も得て、県は同年十月、吉田村から中越村・太田村の分離復旧を認可した。
上高井郡川田村は地租改正実施のさい、地籍が入り交じって地順調査に苦しんだことなどから明治九年五月、東川田村・町川田村・小出村の三ヵ村が合併してできた村であった。しかし、同十四年二月になって、町川田・小出の総代は、県へあてて分村復旧願いを提出した。千曲川・犀川の水防にかかわる土木工事費を、村内の他の河川の水防費・道路費といっしょにして負担すべきであるとする東川田と意見が対立し、また、明治十二年に町川田が凶作で、地租の延納を願いでようとしたが、一村で五分以上の損害でなければ該当しないことから、困難ななかで地租を全納せざるをえなかったことなどがその主な理由であった。これに対して郡長・戸長は、地籍が入り交じっているため分離復旧は困難との意見であった。県は、内務卿へ地籍が錯雑(さくざつ)し分村しても村界がはっきりしないのでかえって不便になるとして、元のまま据え置くことを伺った。同年五月、内務卿は県の伺いどおりとの裁決を下している。明治十四年度から治水費は地元町村の協議費負担が主となったことから、この負担をめぐって村内の組どうしの対立が激化する事例が多くなっていった。明治十年代の町村の内部には、このように分村の事態にいたらなくても、用水・堤防・道路・橋梁(きょうりょう)等の修繕費の負担や民情・習慣・日常生活をめぐってのさまざまな利害関係もあって、独立した団体としての内実を形づくるうえで、多くの問題を抱えていた。