明治十七年(一八八四)五月、政府は区町村会法を改正した。それまで公選制であった戸長を官選とすることや、五〇〇戸・五町村を基準として町村を連合し、連合戸長役場を設置し役場の管轄区域を拡大することが改正の主な内容であった。長野県では翌十八年二月、連合となる町村の区域、戸長役場の位置を達するとともに、官選の戸長を任命した。
連合となる以前の現長野市域には一二一の戸長役場があったが、この改正により二八の連合戸長役場となった。一連合戸長役場あたりの町村数は四・三ヵ町村で(表25)、連合となった町村数の最多は上水内郡の西尾張部村ほか九ヵ村と同郡東条村(若槻)ほか九ヵ村で一〇ヵ村の連合であった。平均戸数は連合前の二二三戸から九六三戸へと増加し、最多の上水内郡では一二三一戸となっていた。また、戸数の最多は上水内郡長野町ほか四ヵ町村の四三三一戸、最小は更級郡田野口村ほか五ヵ村の一六〇戸であった。このような連合で戸長役場が大幅に減少したことにより、地方税から支出されていた戸長の給料は、県全体で明治十七年度には約四万二千円であったが、翌十八年度には約三万八百円へと減少した。
県から任命された現長野市域の二八人の戸長の官等・出身地・族籍(ぞくせき)・所有地価をみると、官等は準一三等から準一七等の五等にわたっており、準一三・一四等はいずれも上水内郡で各一人、最多の準一七等には一八人がいた(表26)。つぎに出身地は、連合町村内一四人・郡内他町村六人・郡外二人・不明六人で、戸長役場の管轄区域の拡大等により、それまで同一町村内出身の戸長によって担当されていた町村行政が、他町村出身の戸長によって担当されはじめたのである。族籍では士族六人・平民一二人・不明一〇人、また所有地価では五〇〇円以上が半数の一四人で、士族・地主層が多数を占める構成になっていた。さらに、明治十八年から同二十二年までに、上水内・更級・埴科の三郡で交代した戸長一六人の出身地・族籍・前歴は、出身地では郡外一〇人・郡内他町村四人・連合町村内二人、族籍では士族八人・平民八人、前歴では県官吏三人・郡官吏四人・戸長等町村吏七人・警察官二人となっていた。とくに更級郡では、交代した七人中士族が六人ですべて郡外者であった。同十九年十一月に上水内郡長野町ほか四ヵ町村の戸長に就任した樋口兼利は、埴科郡松代町出身の士族で、警視庁の巡査から長野県の租税課地理掛となり、その後一〇等警部をへて、上水内郡書記・小県郡上田町ほか二ヵ村戸長を歴任している。このように官選制となってから、町村政を担当する戸長層は官吏的な傾向をいっそう強めていったのである。
県は、明治十八年三月に戸長役場事務条例を制定するなどして、連合戸長役場設置への移行に備えていった。更級郡田野口村ほか五ヵ村連合戸長役場では、戸長柳沢徹之助、筆生三人、雇い一人の計五人で、同年三月から田野口村に置かれた戸長役場で仕事を開始した。また、上水内郡長野町ほか四ヵ町村連合戸長役場では、長野町の旧戸長役場(現城山小構内旧宝林院念仏堂)に修繕を加え、三月から事務取り扱いを始めている。
このようにして出発した連合戸長役場であるが、連合町村からの分離を請願する町村もあった。明治十八年三月、上水内郡長野町ほか四ヵ町村連合となった西長野町・茂菅(もすげ)村の総代五人は、自町村が農業中心で他の三町と人情が異なること、農地・山林の反別に他町村と同様に税を賦課されると大きな弊害が生じることを理由に、この連合町村からの分離と二町村による連合を願いでた。これに対して戸長・郡長ともに、分離するほどの理由がないとの反対意見を添えて、県へ進達した。県は四月、人情の相違は不都合にあたるほどでなく、また課税でも特別不利をこうむっていることはないとして、分離を認可しなかった。
明治十七年五月、区町村会法が改正されたことにより、県は同年七月に町村会規則を改正した。町村会議員の定数は、戸数二〇〇〇戸以上・一〇人、同一〇〇〇戸以上・八人、同五〇〇戸以上・六人、同五〇〇戸未満・四人と大幅な削減となった。議員の任期はそれまでの四年から六年となり、三年ごとにその半数を改選することとされた。上水内郡下六六ヵ町村の議員定数は、長野町が一〇人と最大であり、南長野町・鶴賀町・七二会(なにあい)村の三ヵ町村が六人で、残りの六二ヵ町村は四人であった。数町村で戸長が一人の場合、町村ごとの議会のかわりに連合町村会を開設することができた。そのさいに各町村から選出する議員数は、連合する町村数にしたがって決められていた。翌十八年度から発足した連合戸長役場のもとで、一町村に限定された事業についてはその町村会で議決し、町村の区域をこえ連合した町村に関する事業は、連合町村会を開設し経費や負担について決定していった。
上水内郡屋島村は、明治二十一年三月臨時村会で、千曲川の堤防の新設ならびに改良について、二三〇〇円余の土木費の支出と工事の施行方法を決定した。この決定の認可を得るために同村の決議書に、屋島村が所属した連合戸長役場の戸長宮沢整一が上申書をつけ、上水内郡長森田斐雄がこの決議が適当であるむねを添え、県知事木梨精一郎へ伺いでて、四月四日に知事の認可を得ている。
上水内郡南長野町から北安曇郡大町へ達する県道は、道路状況が劣悪で運輸に不便であった。おりから信越線の工事も進行し、沿線町村の県道改修工事を要望する声がいっそう高まっていった。しかし、県会で大規模な改修工事が認められていなかったので、関係町村で連合町村会を開設し道路の改修を議することになった。明治二十一年六月、上水内郡長は連合町村会の区域を県に伺い、翌七月に認可された。この連合町村会は一八ヵ町村で構成され、現長野市域からは、南長野町・鶴賀町・長野町・安茂里(あもり)村・平柴(ひらしば)村・小柴見(こしばみ)村・塩生(しょうぶ)村・山田中村・七二会村の九ヵ町村が参加していた。同年十一月に県へ議決を報告しているが、それによれば総額四五〇〇円の土木費を計上し、県が県道の改修計画を打ちだしてきたので、設計は県にまかせて、費用全額を県費の県道改修費に加えることにした。また費用の収入は、すべて戸別割で集めることとした。町村ごとに一戸あたりの定額を決め、最高は安茂里村の九一銭余、最低は長野町の二六銭余であった。この定額は各町村会で適宜変更してよいこととされたが、各町村の負担額の変更は認められなかった。連合戸長役場で同一の管轄下となった町村以外の他町村とのあいだでも、連合町村会の開設が容易になり、町村域をこえた事業に着手することが増えてきたが、利害関係を背景にして地域間の対立もみられるようになっていた。
上水内郡では、連合戸長役場となったあとの明治十八年六月に戸長役場処務規程、同年九月に戸長集会例を定めた。連合戸長役場の事務処理や郡長が全郡の連合町村の戸長を集めて会議を開催する場合の方法などについて規定している。いっぽう、この時期の郡全体の連合町村会の動きをみると、十九年七月に連合町村会議員の改選を実施している。それによれば、郡下を甲・乙・丙・丁・戊の五組に分け、各組の定員は三人で郡全体の議員数は一五人であった。同月二十六日に上水内郡役所で選挙会が開かれ、各組ごとに町村会議員が投票し、三人ずつの連合町村会議員を選出した。郡全体にかかわる事業に関して連合町村会で評決しているが、同二十一年度の全郡連合町村費は、会議費・勧業費・教育費・予備費で計六六〇〇円余であった。そのうち、教育費が五六一二円余と最多であるが、これは明治十九年度に設立された上水内高等小学校に関する費用であった。収入の主なものは、戸別割二九二八円余、授業料三〇二七円余となっていた。