共進会・勧業会と農業

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県勧業(かんぎょう)博物場は明治十七年(一八八四)六月に、長野町六一四番地に開設された。しかし、物品の陳列に支障をきたすほど手狭であったために、同十八年十一月、長野公園地内に新設移転した。それ以来、天然・人工を問わず、長野県内の生産物で内外の需要に供することのできるものは、すべて収集、陳列した。日曜日と年末年始を除いて年間二七〇日余、午前九時から午後四時まで開場された。その年間入場者数は明治二十年の場合、二万四七八人で、月別では三月と五月が目だって多かった。「長野県勧業博物場規則」によれば、陳列されている物品について、産地・販路または製造方法の説明を問われたときは、なるべくその依頼に応ずること(第七条)とされた。さらに、購入または取引を始めたいものに対しては仲介の労をとること(第六条)になっていた。このようにして、県主導型の勧業政策がおしすすめられ、農業、工業の振興と商業の活発化がもくろまれた。

 これに先だつ明治十三年二月に、県は勧業試験場開設のため、内務省の許可を得て、一四人の地主から都合一町四反三畝(一・四二ヘクタール)、地価金五二二円分を一二四六円で買いあげた。買上資金は地方税勧業金があてられた。勧業試験場内の家屋は陳列場、牛馬舎、農具置き場などがあり、場内は一〇区に分けられていた。李(すもも)、林檎(りんご)、葡萄(ぶどう)、梨(なし)、牧草園などとなっていた。

 勧業場は規模が小さく、牛馬の運行に支障をきたすほどであったので、善光寺東方の城山で犂(すき)利用の耕耘(こううん)試験をおこなった。西洋一頭牽犂(ひきすき)と内国犂の優劣を比較試験したところ、前者がまさっていた。したがって、この運用の術を農家に習得させ、西洋犂の有利性を普及浸透させる必要があった。当時、農家はもっぱら人力に頼っており、牛馬耕はみられなかったので、この課題は県勧業課にとって大きなものであった。

 しかし、こうした西洋式農法の導入は、もともと内務省(勧業寮)が推進したものであるが、いずれも国内で定着せず、失敗に帰したあと、明治十四年四月に農商務省が設立されると、在来農法が重視され、その改良普及につとめていた老農たちによる農談会・勧業会が各地でひんぱんに開かれるようになった。

 明治十六年五月に長野町の師範学校において、勧業課員、郡主任、郡書記に篤農家が加わって、合計八二人の勧業集談会が開かれた。種子精選交換、農具改良、牛馬耕の得失、蚕種の改良、農談会の開設、民立共進会開設など一五項目について協議がなされ、経験に富むもの同士の知識の交換がおこなわれた。この集談会の議題の一つ牛馬耕について、県勧業課員は、小農が牛馬や農具を所有するのは無理であり、山梨県の興業社のような牛馬と農具の貸しつけ会社をつくるか、豪農に依頼して牛馬および農具を買ってもらい、借りたものの代金は労働で返せばよい、と提言している。現長野市域の出席者としては、村山村小坂善之助、上氷鉋(ひがの)村十代田(そしろだ)義男、南長野町小林耕作、同荻原政太、南長池村宮沢整一郎、田野口村小林元辰などの顔ぶれがみられた。

 牛馬耕については、県下ではまだまれにみられる程度であった。明治十七年五月から、県では山梨県中巨摩(なかこま)郡稲積村近藤伴右衛門を雇いいれ、「伝教師」として上水内郡など北信四郡へ、勧業課員一人とともに派遣した。それぞれの地元で有志者を募り、実地伝習をおこなったが、その最初の地は上水内郡高田村であった。しかし、そこでは馬を飼う農家がなかったため、近村から牡(おす)馬一頭を借りいれてきた。それに犂をつけて耕そうとしたが、馬にとって初めての作業だったことと、取りまく見学者が多かったことに、馬は驚いて暴れだし、仕事にならなかった。伝教師は困って、嘆息するのみであった。このとき、同十二年に地方税で買いとり、松代牧畜会社へ貸しつけてある牝(めす)馬を引きあげ、使役(しえき)してみることになった。すると性質温和であったために、土壌の深浅、乾湿の別なく、長方形に円形に、意のままに耕すことができた。このあと、上水内郡安茂里村など数町村において実地見学に供した。この「軽便」で「迅速」な犂を使うと一日(一〇時間)四反歩(約四十アール)を耕せる計算になっている。

 この犂耕は技術伝習の目的をも兼ねていたが、安茂里村岡村佐十郎らはそれぞれ数十日の伝習を受け、かれをふくむ五人の伝習人が、十一月に卒業証書を授与された。そして翌十八年になって、県は一年間、岡村を雇いいれ、上・下高井、南・北佐久の四郡へ派遣、伝習の任にあたらせた。現地では伝習を希望するものが意外に多く、また、耕具の払い下げを願いでるものもいて、いずれ犂耕の伝播(でんぱ)も遠くないと考えられた。

 民設の地方勧業会は年を追うごとに盛んになっていった。小学校・寺院・役場などで開かれた現長野市域の勧業会・農談会の郡別出席者延べ人数は、明治二十一年では更級郡三一七人、上水内郡二九八人、翌二十二年は更級郡三七八人、埴科郡九七一人、上高井郡七五人、上水内郡(七二会村)一八人となっている。郡によって記載もれがあると思われるが、このうち、更級郡の活動は共立更級農談会(二十二年に信濃農談会と改称)一団体によってになわれていた。毎年三〇〇人を上回る出席者を確保するためには、品評会などの催しものが不可欠であった。岩田僖助が会長となり、中島学と中島禮右衛門が幹事として運営にあたった。

 真島村の蚕種家である中澤貞五郎は明治二十二年八月に、岩田会長から農産品評会の審査員を委嘱(いしょく)された。同時に夏繭は八月十五日までに、蔬菜(そさい)・果物は十九日早朝までに送付してもらいたいむねの依頼を受けている。しかし、出品の少なかったこと、秋蚕が忙しいことにより、開設が九月十二日に延期された。再び中澤あてに出品と審査員の依頼状が届いている。この年は下氷鉋(ひがの)小学校において、三回の農談会が開かれているが、会を成功させるための、会長と幹事の苦労がしのばれる。

 明治十五年、東京上野公園内で開かれた、米麦大豆煙草菜種および山林共進会に出品したもののうち、南長池村の宮沢整一郎は米の部五等を、下氷鉋村中島学は同七等を、大豆の部では塩生(しょうぶ)村宮尾鶏治が三等を得ている。明治二十年十月より神奈川県南多摩郡(東京都)八王子駅で開設された一府九県連合繭糸織物共進会にも出品し、好成績が収められた。