近世からつづいてきた水利慣行は明治十七年(一八八四)七月に県の布達した町村会規則にもとづき、水利土功会が開設されることによって整理され、その事務が一元化されるようになった。浅川水系に関係する上水内郡上松・檀田(まゆみだ)・宇木・吉田・稲田・徳間・東条の各村では浅河原掛水利土功会を組織した。その連合七ヵ村用水掛りいっさいの事務を扱う事務所を設け、全村の申し合わせで二人の担任戸長を置き、事務所に出勤して事務を担当させた。かれらの手当は年額四円であった。事務所は新築の予定がなかったため、吉田村戸長役場の一室を借家料年五円で借りうけた。これらの経費は土功会議事をへて執行されるものである。
こうした事業運営は浅河原養(用)水掛りの場合、すでに以前から始まっていた。同養水掛りの経費割り当てについては、数十年のあいだ、旧高割あるいは地価・反別・戸数などに賦課(ふか)してきたが、明治十三年四月の規則によって、水利土功の事業と費用は関係あるもので会議を開き、議決のうえ実施することになった。会議の議員三六人は各村ごとに員数が指定されており、村会議員のなかから公選によって送りこまれた。経費の賦課は反別割六〇パーセント、地価割三〇パーセント、戸数割一〇パーセントの配分であったが、ここから耕地面積偏重は明らかである。
つぎに、現長野市域で数限りなく発生した用水の係争事件(問題)について二件ふれてみる。
まず第一は「名古屋控訴院審判願」にみられる上高井郡川田村用水妨害新堰埋潰(せぎまいかい)事件についてであるが、上高井郡川田村東組と同町組との深刻な争いが村の合併によって円満解決した事例である。
この提訴は明治二十年七月中の、近年にない大旱魃(かんばつ)をきっかけとしていた。町組は特別の事情であるので、水を分けてほしいと東組に願いでたが、東組はこれが前例となることをおそれ拒絶した。しかし、町組は行政を動かした結果、非常の事態であるので隣組の徳義として、東組は水を分けあたえるようにとの行政の説得を受けいれ、やむなく同年七月二十一日より二十六日まで、字古城と古城玉ノ井との境の締め切りを取り払い、赤野田川に放流した。この玉ノ井上堰の用水は非常旱魃のさい、余水あれば恩恵として町組方に融通することはあっても、権利として請求されるべきものではない、というのが東組の主張であった。
明治二十一年八月に町組が提訴し、勝訴したあと、大審院で原裁判が破棄され、控訴院へ差し戻しとなった。同二十三年二月に東組が名古屋控訴院へ審判願書を提出したのである。この訴訟の願人である東組によれば、町組(被願人)から取りつぶしを請求してきた堰筋は轟(とどろき)堰、玉ノ井上堰といって東組の専用水であって、その池敷も東組専用である。東組の言い分によれば、町組は同二十一年八月中、東組が共有の用水に新堰を設けたと、不実の故障をして提訴に踏み切った、と決めつけている。しかし、同二十四年二月になって、両組はつぎのような示談書を取りかわして和解した。明治二十二年町村自治制がしかれて現在の一村となったことにより、ますます親睦(しんぼく)を深め福祉を増進するために協力しなければならなかった。それゆえ今までのいきさつはいっさい水に流し、本件に関する各裁判言い渡し書はすべて無効とした。将来重ねて紛議を生じないために、九項目の確認がおこなわれた。玉ノ井池は両組の共有、轟池敷は東組の所有、轟池湧水(ゆうすい)の使用は両組の平等の権利とするなどが規定された。そのさいの立会人は須坂町の二人と川田村小泉玄貞・西沢行篤であった。
第二の問題は鉄道敷設にともなうものである。
古川堰は長野町字石堂東沖において二筋に分かれていた。その一筋は呑沢堰で鶴賀町のうち七瀬および栗田村で、他方の古川堰は稲葉村・栗田村で、それぞれ飲料と灌漑(かんがい)に供されていた。毎年田植え時期から九月にいたるまでのあいだは用水不足に悩まされたため、堰筋関係農家から用水掛りを出して用水を保護し、公平な分流を維持してきた。
明治二十一年の鉄道布設にさいし、古川堰筋より呑沢堰へ分岐するところが鉄道用地となってしまった。そこで、もし堰筋を変更すれば、たちまち分流の均衡を失し、水論争のもととなるので、鉄道敷地の部分には眼鏡(めがね)橋をかけて、従来の堰筋のまま据えおくよう、栗田村、鶴賀村七瀬、稲葉村の各関係者は鉄道局へ請願したがなんらの沙汰(さた)もなかった。しかし、同年二月十三日になって突然、呑沢堰に分流するところの土揚げ場を崩し、その土で呑沢堰を埋めたため、関係農家は大いに驚き、新堰を掘るときは公平を期し、従来どおりの分流となるよう鉄道局と県庁へ陳情した。
いっぽう、前記古川堰分岐点よりやや上流の南長野町字石堂沖において、古川堰から待居(まちい)堰が分岐しており、後者は、栗田村北河原沖および鶴賀町のうち七瀬、稲葉村のうち南俣の飲料と灌漑に供されてきた。ところが明治二十一年十二月になって、開運社関係者と長野町の某がその分岐地点に近い待居堰を埋め、それにかわって勾配(こうばい)の急な新堰を掘り、待居堰の流量を多くした。これによる古川堰の流量の減少は明らかであり、稲葉村、長野町、鶴賀町のうち七瀬の各関係者は、さきの二人に対して旧形に戻すよう申しいれたが、一切聞きいれられなかった。そこで、県に対してこの堰筋の変更を許可しないでほしいと陳情した。しかし、現存の水路状況からして、県はこの堰筋の変更を不問に付した。県としてはさきの呑沢堰を埋めつぶしたかわりに新しく待居堰を掘らせて流量を多くし、鉄道敷の東側の用水確保につじつまを合わせたとみられる。いずれにしても用水に関しては人騒がせな鉄道敷設であった。