明治十年代初めから、繁殖を目的とした牧場が、県内五ヵ所で開設されている。そのうち、松代町の藤岡伊織(士族)らは、小県郡傍陽(そえひ)村から埴科郡坂木・森・倉科・西条諸村の山野に接する一四一町歩(一四〇ヘクタール)の官有地を牧場として借りいれた。松代農牛馬貸付会社として、明治十二年(一八七九)六月に牛三〇頭ばかりを放牧したが、同十六年になっても建築物は完備しておらず、同十七年には製糸場の六工社と同様、県から勧業資金四〇〇〇円を借りいれている。
もう一つの牧場は、上水内郡西条村字本取山(もとどりやま)地籍の七〇町歩官有地を借用したものである。この場所は明治七年までは近隣一八ヵ村の入会秣場(いりあいまぐさば)であった。十二年になって牛馬繁殖の必要性をさとり、入会村々が協議したところ、牧場に適する地とされた。上水内郡檀田(まゆみだ)村荒木佐右衛門、田子(たこ)村池田元吉、石(いし)村(豊野町)矢島銀右衛門、富竹村宮沢七右衛門の四人が発起人となって、長野農牛貸付会社の設立をくわだて、同年八月に借地の許可がおりた。宮沢が社主となり、ほぼ一年をかけて道路と数戸の建物、木柵(さく)をつくり、純粋洋種、雑種をふくめて牛数十頭を放牧した。
牛の飼育法は、毎年五月初旬から十一月中旬まで野飼いとした。平均一頭につき毎日、麩(ふすま)一斗、味噌(みそ)一〇〇目を温湯にとかしてあたえ、野放しの時節は青草を食わせ、自由な運動をさせた。夜間はすべて牛舎につないだ。十月中旬から四月下旬にいたる冬季は秣踏みと称して、近郷農家へ貸し付けし、舎飼いとした。その飼育は各自都合により小差はあったが、おおむね麦・稗(ひえ)などの雑穀に塩水を混ぜてあたえた。また牛舎には藁(わら)・干し草を散布した。
この牛は近郷農村や長野町地方へ耕耘(こううん)用・運搬用・肉用として販売されたが、開業以来、日が浅いため、販売頭数はきわめて少なかった。
さきに指摘したとおり、この牧場は以前、秣場であり、毎年数回採草したうえに、野火にかかることもあって、樹木が乏しかったため、開設以来社員が雑木の小苗を植えてきたが、それが十分育っていないため、避暑・防寒の役を果たさず、風雨を避けることもできなかった。このような不備に加えて、資金的にも不十分であったため、創業時の失敗も災いして、しだいに事業不振におちいった。この牧場は士族授産の主意により設置されたことによって、明治十四年十二月に県より五〇〇〇円の貸し下げを受けたが、けっきょく功を奏さなかった。同十五年八月に県勧業課を通じて六頭の青森県産馬を買いいれており、すべて三歳馬で、一頭一五〇円から安いものでも四五円している。この費用をふくめて負債いっさいは、同十六年には社主一個人の肩にかかるところとなってしまった。
長野県では一般に、従来から牛耕がおこなわれず、また婦女子にとって御(ぎょ)しにくいことなどにより、牛の改良繁殖には熱が入らなかった。ところが、肉食の需要が増大するにつれて、明治十八年、種牝(めす)牛馬取締規則を公布して以来、民意一転して繁殖にかたむき、明治二十一年(一八八八)には前年とくらべて、県全体で繁殖用六六頭、乳用三七頭の増加をみた。同年の牛馬頭数を郡別でみると、表27のようになっている。県内の牝牛馬の割合が多いなかで、更級郡・上水内郡の牛と、更級郡・埴科郡の馬は牝の割合が少ないが、これは役畜としての性格がより強いためである。
明治十五年(一八八二)当時、県内の牛馬は一〇〇戸につき、牛一・三頭、馬二九・二頭であった。牛馬の改良繁殖は同年公布の種牛馬貸与規則にもとづいて、ときには県勧業課員を派遣して、推し進められた。長野農牛貸付会社に対しては、同十三年一頭と同十四年一頭の種牛が貸し下げられた。家畜市場は、明治十五年で安茂里村と吉(よし)村の二ヵ所にあった。安茂里では正保(しょうほう)年間(一六四四~四八)に乗馬買上馬市を同村小市で開き、それが終わると、馬喰(ばくろう)による売買をおこなってきた。維新以後の取引の取り締まりには警察官が出張した。馬の売買手数料は馬杭口銭といわれ売り手買い手双方から馬代金一円につき五厘(りん)(〇・五パーセント)を徴収し、積み立てて市場入費にあてた。
いっぽう、上水内郡吉村牛馬羊豚市場は、三登(みと)山・元(本)取山の山麓(さんろく)に位置し、北国街道沿いで、明治十二年八月、宮澤林蔵ら有志が開設した。市場の警備は警察官に頼み、馬の手数料は一頭につき三〇銭をとって、入費にあてた。
両市場とも、青森・岩手・宮城・秋田の諸県産馬を販売したが、安茂里では九割がた売れたのに対し、吉村では二割台、最高でも四四パーセント(十四年)の売却率に過ぎなかった。明治十年代後半になると、吉村市場は閉鎖されたようであるが、安茂里小市市場のほかに二十一年から長野町箱清水一五二二番地に上高井郡上水内郡産牛馬組合の市場が開設された。市の開設時期は五月と十一月の年二回、一回あたり三日ないし四日間開かれた。表28によれば、この双方の市場は、馬の取引頭数・価額の推移からみて、たがいに競合関係にあったとみられる。