松代の漁業と寒天生産

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北信の千曲川・犀川に関する河川漁業は、表29によれば、捕魚では上水内郡三一九一貫、埴科郡一二一〇貫が目立っているが、他方の養殖魚では埴科郡の二二〇万尾が圧倒的である。河川漁業で両河川の鮭(さけ)・鱒(ます)から採取した卵は、県外の試験場をはじめ、上伊那郡南箕輪(みなみみのわ)村県養漁場や明治十二年(一八七九)落成の上高井郡綿内村県養魚場へ配布された。当時の孵化(ふか)率は五割程度にすぎなかったが、同十三年には三月中旬から四月中旬にかけて、綿内の稚魚一二万尾が両河川に放流された。毎年放流のつど、県は下高井郡の村々に対して、一定期間の漁業いっさい禁止を通達している。同十四年になって、松代町魚類蕃殖(はんしょく)会社の請願により、同年から十八年まで綿内養魚場の事業を請け負った。また鮭・鱒が遡上(そじょう)するさいには、上高井郡川田村、犀川との合流地点、青木島にそれぞれ簗(やな)を架設(かせつ)し、捕獲するのであるが、明治十六年から十八年まで、松代町仙道彦八郎ほか五人のものに、その事業を許可した。県はこれらの簗場の下流一八町(一九六四メートル)では毎年九月一日から十二月二十日までのあいだ、すべて架簗(かけやな)を禁止し、それ以遠の県境までは締切簗の禁止を布達した。

 松代漁業は養殖漁業として知られている。とりわけ鯉(こい)の養殖は、もともと武家・士族の副業としておこなわれていた。松代殿町から埴科郡東条村へ転居した鈴木市兵衛(大日本水産会員、士族)は、関屋川西端のわき水の豊富な地に一〇池、都合一五〇〇坪(四九五八平方メートル)におよぶ養魚池を開き、鯉を飼った。餌(えさ)の蛹(さなぎ)は、はじめのうち繰糸(くりいと)農家をまわって集めていたが、隣に松城館(しょうじょうかん)製糸場が建てられてからは、そこから一手に引きうけた。かれが明治二十一年に著した『鯉魚養育方法概略』によると、三〇年ほど前から近在の農家に稲田養鯉を勧めていた。手がけた当時、数十万尾の鯉児を農家に分与し、巨額の収穫をあげて以来、多少とも田を所有するものは養鯉をおこなうようになった。一農家あたり毎年五円ないし三〇円余の利益を得ていたうえ、鯉児の食べ残しの餌(大麦・小麦の粗粉、蚕蛹)は肥料ともなり、米もよくとれた。


表29 漁獲高の状況 (明治15年)

 鈴木は明治十年代以降、内国勧業博覧会や水産博覧会などに積極的に出品し、そのつど受賞したのみか、同十六年の水産博覧会では、出品「品評方」を申しつけられた。これに先だつ十四年に松代養魚会社が設立されたおりには、社長となっている。かれの社友に大瀬義八郎、大日方孫三郎、上村何右衛門らがいたが、かれらの努力で松代町から西条・東条・豊栄の村々にかけて、養鯉業に従事するもの数百戸にまで増加した。その後、明治三十五年ごろまで盛んだった同業も、蛹の用途が拡大して高価となり、経営収支がつかなくなった結果、しだいに衰退していった。


写真18 鈴木市兵衛養魚場の図(部分) 現在は家の左側の池のみ残る
(鈴木輝所蔵)

 寒天(寒心太)は水産物として分類され、県内では諏訪郡宮川村(茅野市)が主な産地として知られているが、同郡の他村と同程度の生産量を誇っているのが松代町である。起業者の内山芳五郎は松代町の漁商であったが、十七年十二月から諏訪地方の製品にならい、製造を試みたが、品質のよいものができなかった。世間で粗製乱造とそしられたため、鋭意改良につとめた結果、十八年にはおおいに好評を博して販路を広げた。

 一八人の職工を抱えた内山の製造をかいま見ると、原草(天草(てんぐさ))は伊豆の神津島・三宅島産を使用するが、それを東京で購入した。運送費は陸路で一〇貫目あたり五五銭で、諏訪地方とくらべて一〇銭ほど安かった。製造法は、まず晒(さら)した原草一〇貫目(三七・五キログラム)につき水六石二斗(一一一六リットル)さらに上酢三升(五・四リットル)を加えたものを、一二時間沸騰(ふっとう)させて煮あげた。そのあと、上艇に入れて搾(しぼ)り、下艇に落ちてきたものを汲みとって、諸蓋(もろぶた)(長方形のお盆を大きくした入れ物)に入れ、角または細に切断して、簀(す)のこか板上に置いて凍らせ、その後数回乾燥した。明治十九年には角一〇〇〇斤(六〇〇キログラム)、細三一三斤生産し、一斤あたり二五銭で横浜へ販売している。