明治十一年(一八七八)から十五年にかけて各町村の戸長が地元の状況を取り調べて県令あてに報告したものが、『長野県町村誌』に載っている。この時期の農業生産は近世から受けつがれてきた農産物と新しいものとが交錯(こうさく)し、村によってさまざまな農業が営まれていた。その特徴を地域別に分けて整理すると以下のようである。
①穀物以外に実綿、菜種(油)、藍(あい)の生産がおこなわれている。とりわけ実綿は川中島地方では商品作物であったが、そのほかではおおむね自給の色合いがこく、婦女子の農閑期の余業としての機織(はたお)りと結びついている。藍は上水内郡安茂里(あもり)村・七二会(なにあい)村・赤沼村、上高井郡保科(ほしな)村などではまだ重要な商品作物であった。
②そのいっぽうで、興隆(こうりゅう)しつつある繭と蚕卵紙の生産は村によって差があった。とりわけ平坦(へいたん)地の蚕卵紙生産の盛んなところでは繭の出荷量も多い。村内の「本籍戸数」あたり繭生産量をみると、上水内郡風間・里村山・長沼津野・長沼穂保、更級郡東福寺・今井・小島田・牛島、埴科郡西条・豊栄の村々が目立っている。出荷先として、記載のある分についてみると、上水内郡吉田村では埼玉県・群馬県へ、同郡里村山村では上田と須坂へ、長沼津野村では須坂へ送り、長沼大町・赤沼・綿内や大豆島(まめじま)の各村ではいずれも須坂・長野であった。多くの村々では「農桑」をおこなうかたわら、農閑期には男は藁(わら)細工、賃馬稼ぎ、薪(たきぎ)とり、行商、女は紡績、機織り、縫いものが一般的であった。
③上水内郡富田・上ヶ屋・広瀬・入山の各村(芋井)、塩生(しょうぶ)村(小田切)、七二会村の山村地域では、薪とり、木炭、麻と麻布・蚊帳(かや)地、楮(こうぞ)・和紙の生産がおこなわれていた。それらを本業・余業としていた同地域では、養蚕についての言及はみられず、その導入が遅れていたとみられる。
④平坦部の村では馬が少なく、一村数頭以下程度が多いのに対して、山間の村々では二~三戸に一頭の割合で馬を飼っていた。同様に馬が多いのは更級郡高野・田野口・氷ノ田(信田)・三水・山平林(以上更府)、有旅(うたび)(信里)、埴科郡豊栄(松代町)、上高井郡保科村(若穂)であり、そのなかには余業として、賃馬稼ぎもみられる。
⑤その他の生産物として、更級郡安庭村(更府)、上高井郡保科村(若穂)の葉たばこ生産、川中島平の菜種生産、更級郡青木島村、牛島村(若穂)の漁業(鮭(さけ)・鱒(ます)・鯉(こい)・鮒(ふな)・はや・かじか)が目につく。
当時の農業の生活のようすを、更級郡塩崎村の「民業」についての記載内容で代表させれば、つぎのようであった。同村では農家が八百余戸あり、山野に薪・秣(まぐさ)をとり、漁労をし、大工、左官、小商業などをおこなっていたが、これは農隙(閑)の仕事であって、一年間の生活費の一部をあがなうにすぎなかった。
粗衣粗食をむねとし、炎熱風雪をいとわず、夜明けの鶏の鳴き声に先だって田んぼを耕し、暗くなって星の光を背にして家に帰った。夜は縄をない、わら沓(ぐつ)を作り、日夜働いてもなお年間生活費をまかなえないものもいた。村内の生活程度からみると、裕福な家は一~二割程度で、残りの八~九割は貧しい家であるというのが一般的であった。
村の農家のなかには商業にたずさわったり、職人として生計を補充していたものもめずらしくなかった。上水内郡南堀村は五九戸、人口三一二人の村であった。その職業別人口の内訳は農業二六〇人、工業一〇人、商業一四人、雑業二八人となっている。表32は商工業に従事するものの明治十一年から二十六年にかけての所有地価金の変化をみたものである。同村の反あたり法定地価金は中等田四四円二銭、中等畑一九円九〇銭、宅地三三円五七銭であった。十一年から二十六年にかけて蚕種小売商Aや黒鍬(くろくわ)職(土木職人)H、Iのように地価金を増やしている業者もいるが、雑菓子小売商・布仲買商・書画小売商・大工職など多くの業者は二十六年には農地・宅地の地価金を減らしている。このように農家家計を支えてきた商工業は十年代後半の商売の不活発化によってその影響力を弱め、農産物価格の下落とともに下層農家は没落していかざるをえなかった。
農業のうち、稲作生産は全国各地との種子交換を通じて試作をおこない、試行錯誤の繰りかえしであった。明治十三年の『長野県勧業月報』によれば、上水内郡長野町箱清水組原善之助は県からの依頼で五種類の稲を試作した。その結果、早生種は反当籾(もみ)収量五石八斗七升であったのに対して、二種類の中生種はかろうじて二石一斗四升と一石一斗四升、晩生種にいたっては結実しなかった。長野町付近のような寒冷地には向かない品種であった。このような篤農の努力によって多収穫品種が普及していた。
また、更級郡石川村の田中儀忠太は、七日間水に浸した種籾を苗代一坪当たり九合の割合で五月二十四日に播種し、その一ヵ月後に種粕、人糞などを施した。七月一日に田植えをおこない、苗八本を一株として植えた。除草は七月十一日から八月十日まで四回おこなっている。十一月十三日の刈りとりで五坪あたり収量は五升五合(反当たり三石三斗)であった。このようないく事例もの稲作技術が『長野県勧業月報』に掲載され、村の勧業関係者、篤農らによって営農の指針とされた。