地主の成長

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地租改正によって土地所有者は農産物価格の変動にかかわらず、定額の地租を課せられるようになった。明治十年代後半の松方デフレ期において米価・繭価が急落することによって、農民のなかにはその重い地租が支払えず、けっきょく、田畑を手放さざるをえないものが続出した。その実態として『県庁文書』と『長野県統計書』から明治十五年(一八八二)と十六年の現長野市域関連の四郡の耕地売買状況をみると、つぎのようになっている。

 売買の対象になった耕地、宅地、山林その他の売買地所金額に対する売買耕地金額の割合は、更級(さらしな)郡が八八パーセント(十五年)、九〇パーセント(十六年)、郡内総耕地面積にたいする売買耕地面積割合も二・五パーセント、三・〇パーセント、一口あたり売買金額・売買面積ともに、もっとも高く土地移動が激しい。このほかに地所の質入れ・書き入れによる金銭貸借関係がある。更級郡の明治十六年の耕地売買面積が二二七町歩であるのに対して、質入れ・書き入れは二〇六四町歩と九倍におよんでいる。同年の年間請けもどし面積一四七町歩、返済期限切れ売渡面積一七五町歩であった。

 つぎに、表33は現長野市域に関係する四つの各郡別に、地租五円以上一〇円未満納入者(郡会議員選挙有権者)数と同一〇円以上納入者(同被選挙権有権者)数をみたものである。五円以上納入者は埴科郡以外は県全体と同様に減少を示している。さらに一〇円以上納入者にあっては、上水内郡ではもっとも落ちこみが大きく、逆に埴科郡では一・三倍の増加となっている。ちなみに同郡の地租一〇円は耕地面積にして一町三反程度にあたる。このように明治十年代後半の四年間に、中堅土地所有者はいっぽうで土地を集積して寄生地主化するものと、他方で没落し、自小作農化を迫られるものとに、分化していったのである。


表33 郡別地租納入者数  単位:人、(%)

 その結果、明治二十二年の衆議院議員選挙有権者数を納入地租額階層別に区分したのが表34である。埴科郡では一〇~二〇円未満層が六〇パーセントと高率であるが、さきの表33の地租一〇円以上層のいちじるしい増加が、主にこの階層の増加となっていたとみることができる。いっぽう、一〇〇円以上の土地所有者は更級郡に集中している。同郡の地租一〇〇円は耕地にして一三町歩所有に相当する。同郡の川中島平が、現長野市域できわめて肥沃(ひよく)な地であったことは、地租改正事業の項で述べたとおりである。明治十七年の米の反あたり収量と小作地率は、『長野県統計書』によれば、更級郡がそれぞれ一石二斗七升、四一・四パーセントであるのに対して、埴科郡一石一斗六升、三五・六パーセント、上高井郡一石四升、三〇・〇パーセント、上水内郡一石一升、二〇・七パーセントである。ふつう農業生産力の高い地域ほど地主制は早く生成されるのである。


表34 地租納額別衆議院議員選挙有権者数(現長野市域)

 つぎに、いくつかの小作証書から具体的な地主小作関係をみると、上水内郡稲葉村の小作人が明治十五年に反あたり籾五・四俵の小作証書を差しだしている。その文面では、もし地主が自作したり他に譲渡するときはすみやかに返地するとして、地主の手作りの可能性を残している。

 更級郡稲里村地主に対する明治二十六年の小作特約証は、前年度の滞納小作料二俵二斗五升の特約であったが、上等籾一俵につき五斗五升入、それ以下はさらに一斗につき一升の割で増籾を加えるというものであった。滞納小作料の利子率は年一二パーセントに相当する増籾を加えることになっていた。

 畑小作料の相場は、地主と小作人の相対(あいたい)勘定であるので、村内でさまざまな結果となり、不都合を生じるので、上高井郡綿内村では、戸長役場において地主と吏員(りいん)の議をへて一般的で公平な小作相場を定めることにした。また、小作料は毎年十二月十八日限り皆済とした。水田小作料(籾納)の分は十一月三十日限りとしたが、稲の不熟につき小作人から減免の願い出があったときは、地主集会を開いて相当の引き方を定め、戸長へ報告することとした。明治十四年十二月に伍長総代・地主・小作人総代が「御請書」に署名している。

 更級郡岡田村の寺沢家は文久(ぶんきゅう)元年(一八六一)は農業経営をおこなうかたわら、七五人の小作人から六一九俵余の小作籾を得ており、同三年の土地所持高は八八石余で村内最高であった。そののち、明治十五年までに田畑九反七畝を集積している。一石を一反と換算して明治十年代には一〇町歩の土地所有者であったことになる。


写真22 川中島平の地主の屋敷

 寺沢家の「家計精算帳」から明治十年代の地主家計の収支状況をみると、翌年度への繰越金は明治十一年五八六円から十四年の一一七二円に増えたあと、十五年で二二一円に急減し、以後また徐々に増えて二十二年には六八五円にまでふくらんでいる。この十年代の地主経営で十五年の繰越高減少が問題である。それは、十五年の一月と五月の二度にわたって、屋代銀行株式二〇株分五〇〇円と、さらに十月に原銀行株式一〇株分二〇〇円が払いこまれたことによる。そのうえ、十六年八月と十七年一月に合わせて原銀行へ三〇〇円が払いこまれ、その合計株式投資額は一〇〇〇円におよんでいる。

 松方デフレ期に農産物価格がいちじるしく下落した結果、地主が農地を取得して社会的地位を高めようとする場合は別として、長野県では純経済的にみて株式投資のほうが利回りが高く、有利であったのである。寺沢家の場合も幕末から明治十五年までのおよそ二〇年間にわずか一町歩を集積したにすぎず、一〇町歩地主として、より以上の社会的地位を求めるより、明治十五、六年の株式投資は利殖の有利さを優先した地主経営であったとみられる。十年代後半の土地集積状況もほぼ同様に消極的であったものとみられる。