現長野市域に関係する四郡の繭(まゆ)生産高の長野県全体に占める割合は、表36のようである。四郡のうち、明治十六年(一八八三)の春繭は更級郡、秋繭は埴科郡が比較的高い割合を占めていた。そして、その後の養蚕業の発展のなかで、同二十三年には上水内郡の春繭と秋繭ともに、また、更級郡の秋繭もいちじるしい伸長をみせている。養蚕農家一戸あたり産繭量は更級郡農家が一番多かった。また、六年間の桑園反別の推移をみると、一歩遅れて養蚕業発展の緒についた上水内郡が、やはり急速な拡張を示している。
このような状況のもとで、養蚕農家の経営については、明治二十年の神奈川県南多摩郡(東京都)八王子駅で開催された一府九県聯合繭糸織物共進会申告書がその資料を提供してくれる。
現長野市域農家からの申告書のうち、更級郡内の小島田(おしまだ)村ほか村々の養蚕農家の状況についてみたのが、表37である。蚕種量の多い順に配列したが、ここで特徴的なことは、まず、蚕種一枚あたり成繭(せいけん)までの平均労働力は家族規模と田畑耕作面積によってまちまちであるが、五〇人規模が多い。養蚕費用構成でもっとも大きいのは、四〇パーセントほどを占める肥料代である。村々の各農家は、大量の酒粕(さけかす)、油種粕、蚕糞(こくそ)、大豆、人糞尿(じんぷんにょう)をいっしょにして、水肥をつくり、冬肥(一月)、春肥(四月)、芽ふき肥(六月切採後)、土用肥(七月末から八月初め)として年四回にわたってほどこした。肥料代を含む養蚕費用合計と養蚕収入の差である所得をみると、蚕種一〇枚農家、ついで八枚農家が目だって高いが、ほかは二〇円程度にまとまっている。
小島田村の複数の農家によって指摘されていることであるが、明治十五年以前と同十六年以後では、飼い方が異なっている。小島田村の村松忠右衛門によれば、以前、原紙一枚を籠(かご)一枚に掃き落とすことから始まって、蚕の成長にともなって枚数を増やし、最後には四眠後八〇ないし一〇〇枚に増やしていたものを、まず、籠二枚に掃き落としたのち、「薄飼い」に心がけ、順次、枚数を増加させて一三〇枚にまでもっていった。また、桑をあたえる度数も、一眠から三眠まで一日六度であったのを八度にし、三眠後熟蚕まで一日四度を六度に増やした。蚕糞を取り除くのも一日一度から二度に増やしたことによって、手数がかかるようになったようである。
当時の蚕の飼い方は温涼折衷(おんりょうせっちゅう)育と呼ばれていた。明治十五年までは蚕室の温度を維持するために、室内を密閉して空気の流通を遮断した結果、蚕の成育に支障をきたしていたが、家屋の構造を変更することによって、空気の流れ、腐敗臭気・湿気の除去、光線の投射に配慮した。温度は終始、平均華氏七三度(摂氏二二・八度)とし、朝夕の寒冷時には火力を用いた。桑の品種は眠前までは「四ツ目」、三眠後は「元右衛門」が用いられた。すでに、蚕が繭をつくる段になると、藁の蔟(まぶし)に入れるか、萩の枯れ枝を骨として藁一八センチメートルほどに刻み、萩枝のなかに立て、そこへ拾いこんだ。
八王子の共進会へ繭を出品した農家のうち、ほとんどは、自家製の蚕種から製造していた。たとえば、上高井郡綿内村佐藤倉蔵の「赤熟」は、明治十七年に蚕種を福島県伊達郡から取り寄せ、自家生産したものであり、「青熟」は同二十年に農商務省から同人の所属する盛蚕社事務所へ配布された卵種を飼育したものであった。また大豆島村の轟小三郎は同村の蚕種組合盛業社社長(明治八年)や上水内郡蚕糸業組合理事(十九年より)を歴任したものであるが、自家製の「又昔」は慶応元年(一八六五)に小県郡塩尻村藤本善右衛門から買いいれたものを交配し、「赤熟」は本県蚕糸業組合取締所付属蚕病講習所において飼育した繭を、十九年に買いうけて自家製造したものであった。
蚕種の保存方法はいたって簡単なものであった。秋風の吹くころより乾燥のよい室内に掛けておき、小寒(一月五日)のころ、一〇時間ほど寒水に浸して乾かし、もとの室内にかけておく。四月中旬から日当たりのよい天井ぎわに下げ、注意深く孵化(ふか)発生するのを見守るのである。
また、蚕種の販売については、上水内郡柳原村の蚕種商花岡庫蔵の『蚕種販売』(明治二十三年)が、当時の実情を教えてくれる。花岡は群馬県利根郡と吾妻(あがつま)郡で、九月十四日から十月十六日まで活動をしており、七分付け蚕種二二七枚を主として、三五八枚を売り、その蚕種代金は五八八円におよんでいる。そのうち、二五八円(四三・九パーセント)は同年中に受けとり、残額の集金は翌年春以降に回されている。
さきの轟は明治十三年五月に、石川県勧業課の依頼により、伝習生一人を受けいれた。彼が一年後に帰郷すると、同県および富山県において同家蚕種はもっとも賞賛され、販売量が倍増した。このような蚕種家の結びつきはさまざまな場面でみられた。同二十年五月に下伊那郡山吹村(高森町)で、貯蔵の便をはかって数万枚の蚕種を預かっていた隣政寺が火災のため全焼した。おりしもすでに蚕児発生の時期が迫っており、被害者は良種を求めていたが、近隣のみではわずかしか手に入らなかった。このことを聞き知った上水内郡村山村金井庫之助は微粒子無毒精選枠製の蚕種三四七五区(区は円形の産卵蛾区(がく))を送った。
この時期の蚕業の発展にとって、微粒子病毒をいかに防ぐかが大きな課題であった。長野県は明治十九年から、県勧業陳列所と上水内郡三輪村宇木の県蚕糸業組合取締所蚕種検査講習所で、また、同二十一年には長沼村西厳(さいごん)寺において講習をおこない、蚕病検査のための学理と顕微鏡使用法を伝習させた。卒業者は各郡蚕糸業組合事業所の検査人となって活躍した。